縄文海進によって九州の縄文人が東に移動して三内丸山遺跡を作った可能性についてグーグルジェミニに聞いてみました。
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質問と答えは次の通りです。
質問.三内丸山遺跡は約5500年前です。泥に埋まった佐賀県の東名遺跡は約7000年前です。九州で多く見つかる約7000年前の曽畑式土器は縄文海進以降ほとんど見つからなくなりました。私には住民が東に移動したとしか思えないのですがいかがですか。
(グーグルジェミニの答え)
ご提示いただいた歴史的背景をたどり、縄文海進が人々の生活や移動に与えた影響を考えると、非常にロマンがあり、かつ考古学的にも核心を突く視点ですね。
佐賀県の東名遺跡が約7000年前(縄文時代早期末)に急激な海進によって水底に沈み、厚い泥に覆われて眠りについたこと、そして九州で栄えた曽畑式土器の文化圏がその後変化していく様子 を見ると、「海に追われた人々はどこへ行ったのか」という疑問は自然な流れとして浮かんできます。
この「住民の東への移動(東日本への拡散)」という仮説について、考古学的な視点をいくつか整理してみます。
1. 縄文海進による環境の変化と人々の移動
約縄文海進(約6000〜7000年前)のピーク時、日本列島は現在よりも海面が2〜3メートル高く、内陸深くまで海が入り込んでいました。
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九州の場合: 佐賀平野や関東の平野部など、それまで平穏な狩猟・採集の好適地だった低地が次々と海に水没しました。東名遺跡のように、生活の場や貝塚が数百年という短い期間で泥の底に没した例は少なくありません。
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居住地の選択: 生活基盤である平野や海岸線が狭まったことで、九州の縄文人は高台へ移動するか、あるいは新たな生活の地を求めて移動せざるを得なかったと考えられます。
2. 文化や人流の「東進」を示すもの
ご指摘のように、環境の変化を契機として人々や文化が移動した可能性は十分に考えられており、考古学の分野でも「人の移動や文化の伝播」として議論されるテーマです。
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土器や技術の広がり: 九州発祥とされる曽畑式土器やその影響を受けた文化は、海上ルートなども活用しながら本州方面へ波及していった形跡が見られます。当時の縄文人は丸木舟を操る優れた航海技術を持っており、海を越えた移動や交流は日常的でした。
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北陸や東日本への影響: 西日本からの人口移動や文化的な流入が、のちの東日本の縄文文化(三内丸山遺跡が栄えるような環境的素地を含む)に何らかの刺激や人的な足し算をもたらした可能性は、完全に否定はできません。
3. 三内丸山遺跡(約5500年前)との時差
一方で、約7000年前の東名遺跡の埋没から、青森県の三内丸山遺跡が大規模な定住集落としてピークを迎える約5500年前の間には、約1500年ほどのタイムラグがあります。
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そのため、「東名遺跡の住民がそのまま直接、三内丸山を作った」というよりは、数世代、数百年の時間をかけながら、環境の変化やネットワークを通じて日本列島全体でダイナミックな人の往来や文化の継承があったと捉える方が自然かもしれません。
海面上昇という大いなる自然の猛威によって故郷を追われた人々が、新たなフロンティアを求めて移動した――。そう想像すると、縄文時代の日本列島が、私たちが思っている以上にダイナミックでつながった世界であったことが感じられますね。
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