古代における東西の文明の違いと海路の重要性
〈情報メディア発信局へようこそ〉
日本の歴史を見て思うのは、
圧倒的に西日本が歴史の舞台になることが多いという事実です。
これは奈良と京都が日本の主都であったことからきていますが、
東日本は平家との戦いの中で生まれた源頼朝による鎌倉幕府や、
豊臣秀吉から距離を置こうとして生まれた徳川家康の江戸幕府など
東日本は西日本との勢力争いの中で生まれた舞台と言う印象があります。
簡単に言うと文明は西日本が主役だったというのは否定できません。
ではなぜこのような違いになったのでしょうか。
縄文時代の人口は圧倒的に東日本の方が多かった。
すなわち人口の差なら東日本の方が発展してもよさそうです。
弥生以降稲作の広がりで人口は西日本の方が多くなりました。
すなわち米の収穫の差が文明の違いをもたらした。
と言うのも無縁ではなかったのかも知れません。
しかし私は決定的な差は、
交流や物流のしやすさにあったのではないかと思っています。
文明は交流すなわち情報交換が多いほど発達します。
比較や競争の中で技術開発が進むからです。
では東西の交流の頻度の違いは何でしょうか。
それは流通網の違いです。
西日本には瀬戸内海があります。
昔は海は交流や物流の道でした。
瀬戸内海と言う安全な内海の道があったのです。
多くの船が行き来したはずです。
一方東日本はどうでしょうか。
瀬戸内海のような内海の道はありません。
外洋を使わざるを得ないのです。
危険な外洋の交流はおのずから制限されます。
すなわち西日本ほど活発な交流が行われなかったということです。
これが文明の差として現れたのではないでしょうか。
日本の歴史は神武東征から始まっています。
このルートは正に瀬戸内海なのです。
安芸すなわち現在の広島県と、
吉備すなわち現在の岡山県には長期滞在をしています。
これは東征と言うより統治の拠点にふさわしいかの検証と、
領地の地盤固めが主たる目的だったのではないでしょうか。
このように歴史は海の道である瀬戸内海が作ったといっても言い過ぎではないと思います。
もし東日本にも内海で交流できる海の道があったら、
恐らく西日本に負けないような文明の進化があったはずです。
いかに海路が重要であったか。
文明の東西の差がこのことを明確に示しています。
スポンサーリンク