箸墓古墳は卑弥呼の墓であるとは思えない
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宮内庁の資料によりますと、
箸墓古墳は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命 の墓と言うことになっています。
しかし現在の歴史学会では卑弥呼の墓ではないかという多くの意見があるのです。
ここでは箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない理由について考えてみましょう。
1.時代の検証
卑弥呼は2世紀末から3世紀半ばの女王となっています。
倭迹迹日百襲姫命 は第7代孝霊天皇の皇女ですので、
歴史学会のいわゆる欠史8代の天皇の時代と言うことになります。
初代天皇から第12代仁徳天皇までの天皇は100歳を越えた天皇がおられますので、
常識的には2倍歴が採用されていたと考えることができます。
これはそのまま用いますと明らかな間違いを起こしますので修正しますと、
およそ次のような年代になります。
初代神武天皇 3世紀初め
第10代崇神天皇 4世紀前半
第16代仁徳天皇 5世紀初め
*2倍歴の修正は古代天皇の在位期間を平均13年としたものです。
この数字は私の独自に出した数字ですが、
京都大学国史研究室編の調査 とほぼ一致しており、
チャットGPTも妥当な数字だと認めています。
さて問題の、
第7代孝霊天皇の年代ですが、
上記の計算から3世紀後半と言うことになります。
倭迹迹日百襲姫命が亡くなったのは第10代崇神天皇の頃ですので、
4世紀に入っていたはずです。
卑弥呼の死は248年すなわち3世紀中ごろとなっていますので50年ほどの開きがあり、
誤差範囲とは言えない開きがあります。
2.身分上の検証
卑弥呼は鬼道を使って倭国大乱を収めた女王です。
魏に朝貢までして金印と鏡100枚を受け取っています。
すなわち中国も認めた倭国の絶対的な女王と言う位置づけです。
一方記紀によりますと第10代崇神天皇の時代は災害が多く、
倭迹迹日百襲姫命がお告げを受けて大物主神を祀ったところ、
災害は収まったのですが自身は箸で陰部の損傷で命を落としたのです。
箸墓古墳の箸はこの出来事が元になっています。
*『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されています。
どうですか卑弥呼と 倭迹迹日百襲姫命の境遇は余りにも違いすぎると思いませんか。
皇女の身分でなぜ巨大な前方後円墳が作られたのか。
住民には長年苦しめられた災害を鎮めるために身代わりになったと解釈されたのではないでしょうか。
その古墳の巨大さが感謝の気持ちを表しているとすれば納得できる話です。
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