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三内丸山遺跡の住民は上野原遺跡から移り住んだ住民ではないか?

   

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青森県の三内丸山遺跡は、

約5500年前の縄文時代最大の遺跡と言われています。

集落内には巨大な木造建造物の跡が見つかっており、

クリなどの栽培も行われていた痕跡もあることから、

高度な文明が作られていたことが分かったのです。

しかし、

この三内丸山遺跡より約3000年も古い、

高度な縄文遺跡が鹿児島県で見つかっています。

それが約8500年前の上野原遺跡です。

上野原遺跡には縄文遺跡でありながら、

弥生土器に負けないくらい高度なつぼ型土器や貝の装飾品が見つかっているのです。

ところがこの上野原遺跡は、

約7300年前に起こった喜界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火で壊滅しているのです。

その後約7000年前に北部九州で曽畑式土器が見つかっていることから、

上野原遺跡の住民は北部九州に疎開したと考えられるのです。

ところが北部九州の集落は約6000年前をピークとした縄文海進によって水没したのです。

この証拠が佐賀県の東名(ひがしみょう)遺跡です。

この遺跡はすべてが泥に埋まった状態で発見されました。

発掘の結果、

食料を地下に保存するなど上野原遺跡と共通した習慣があることが分かり、

南九州の住民が火山噴火から逃れた疎開先だと考えられるのです。

では水没した北部九州の集落の住民はどこに逃れたのでしょうか。

それは土器の年代が証明しています。

約6000年前の土器が朝鮮半島から、

約5500年前の土器が三内丸山遺跡から見つかっているのです。

これは住民が朝鮮半島と東北地方に移住した可能性があることを示しています。

以上のことから、

三内丸山遺跡の住民は火山噴火と縄文海進の災禍から逃れて、

南九州⇒北部九州⇒東北地方又は朝鮮半島

と移動したのではないかと言うのがこの記事の結論です。

三内丸山遺跡の高度な建造技術は短期間に習得できるものではありません。

水没した北部九州の集落の住民が身に付けていた技術ではないでしょうか。

ちなみにこの意見をチャットGPTに聞いてみますと、

その可能性は高いという答えでした。

皆さんはどう思われたでしょうか。

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