何を人生の目標にすべきか
あなたは何のために生きているのか?
と尋ねられたら何と答えますか?
この質問自体が人間を特別視した質問だと分かるでしょう。
犬や猫は何のために生きているのか?
という質問とどう違うのでしょうか?
人間は犬や猫とは根本的に違うのだ。
という前提が無ければこのような質問は成立しないはずです。
確かに人間は他の動物とは決定的に違うところがあります。
それは思考ができるということです。
なぜ人間だけこのような質問が意味を持つかと言えば、
人間は思考という能力を持ったために、
同時に他の動物にない様々な悩みを抱える羽目になったからです。
犬や猫が不快感や怒りの感情を持つことは分かりますが、
少なくとも過去を後悔したり、
未来を不安がるといった思考をしているとは思えません。
このようなマイナス思考は、
人間が思考という能力を持ったための、
言わば副作用のようなものなのです。
このようなマイナス思考を克服するには、
何のために生きているのかについて、
少なくとも自分が納得できる答えが欲しいですよね。
私はこの答えは人生の目標(夢)を持てるかどうかだと思っています。
大海を渡る船が目的地を持たなければ漂流するでしょう。
それと同じように人も目標が無ければ、
ただ死ねないから生きているのだという、
空しい人生を送ることになるのではないでしょうか。
世の中を見渡してみて、
生き生きと生きている人は目標を持っている人のようです。
将来医者になりたいとか、
お店が持ちたいとか、
何らかの明確な目標がある人ほど充実した生き方をしているようです。
人生に目標を持つということが、
充実した生き方には必要だということが分かりますが、
では何の能力もないと思っている人は、
どんな目標を持てばいいのでしょうか。
誰でもプロスポーツ選手になれませんし、
医者や弁護士は誰でもなれるわけではありません。
だいいち高齢者になると『いまさらーー』という気がしてきます。
年齢を問わず誰もが持てて、
しかも裏切られることがなく
一生持ち続けることのできる目標はないでしょうか。
私がお勧めしたいのが、
『悟りを目指す』
という人生の目標です。
悟りはお坊さんの究極の目標ですが、
決してお坊さんだけの専売特許ではないのです。
悟りの心は普通の人間が一生かけても簡単に手にできるものではありません。
そのためあくまで人生の目標として掲げるのです。
悟りは人との競争ではありません。
どの程度悟れたかは自分しか分からないのです。
ところが、
少し悟りの境地に近づけたかなと実感できた時、
無上の喜びを感じれるのです。
私は現在70歳ですが、
若い頃は心が定まらず、
なんで生きることはこれほど苦しいものなのかとずっと思っていました。
40歳を過ぎて仏教に出会い、
自分のような弱い人間には宗教が必要だと気が付いたのです。
それからというもの仏教の本を読み漁る傍ら、
座禅、瞑想、気功などの真似事を始めて、
死ぬまでに悟りの境地を体感したいと考えるようになったのです。
すなわち悟りという人生の目標を持ったということです。
現在70歳になっても、
とても悟ったなどとは言えませんが、
若い頃とは別人に生まれ変わったことだけは確かです。
食事がうまいし、景色がきれいなど、
若い頃には無かった生きる喜びを体中で感じています。
悟りは他人との比較ではありませんし、
どの程度悟れたかの指標があるわけではありません。
そんなことはどうでもいいことだとすぐに気づくはずです。
完全に悟る必要もないし悟れないと焦る必要もないのです。
ただ人生の目標として自覚し、
今日一日でほんの少しでも悟りに近づけれたと実感できれば、
人生の喜びに繋げられるのです。
夢は持つが実現しない方がいいと私は思っています。
実現した時点で夢が夢で無くなるからです。
夢に向かって少しでも近づけたことを喜びとする。
という状態を続けることがベストだと思うのです。
夢の実現そのものに意味があるとは思えないからです。
スポンサーリンク