情報メディア発信局

様々な情報コンテンツを発信していきます!

邪馬台国は国ではなかった?

      2017/07/06

邪馬台国の記述は魏志倭人伝にしかありません。
古事記や日本書紀には全く登場しないのです。
これは不自然と言わざるを得ません。

このことから私は邪馬台国は国ではなく、
大和朝廷の行政機関だったのではないかと考えています。

志賀島で卑弥呼が中国皇帝からもらったとされる金印が発見されました。
農作業中に偶然見つかったのです。
そのような大切なものが畑から見つかるでしょうか?
捨てられたとか埋葬されたとか様々な説があるようですが、
もし皇帝から授かったものなら、
もっと大切に保管されていたはずです。

そこで私の大胆な推理です。

卑弥呼は朝廷の命令で中国と交渉しました。
朝廷の存在をかくすため邪馬台国の卑弥呼と名乗ったのです。
これが魏志倭人伝に大和朝廷の記述が無い理由です。
強大な中国皇帝に対して朝廷の安全を図るには、
朝廷の存在を隠す必要があったのではないでしょうか。

卑弥呼は金印を受け取ったが処分に困ったのではないでしょうか。
そこには倭の国王と記されていたためです。
自らを女王と名乗ったのかどうかは別として、
天皇に対して国王はさすがにまずいと考えたのかも知れません。
金印の受け取りは中国皇帝の配下になることを意味するなら、
これを拒否する意味もあったのかも知れません。
結局金印を捨てざるを得なかったというのが私の推理です。

もし日本に邪馬台国が存在して女王卑弥呼が統治していたのなら、
記紀だけでなく各地に言い伝えが残るはずです。
邪馬台国や卑弥呼の記述が日本で全く見つからないのは、
邪馬台国は国では無く単なる大和朝廷の行政機関(後の幕府に相当)だった、
と考えるとすべてが納得できるのです。

記紀は天皇の物語ですので、
行政機関にすぎない邪馬台国も卑弥呼の記録もないのは当然です。
中国皇帝は大和朝廷の存在に気付かなかったのは、
天皇が直接交渉に参加することがなかったからではないでしょうか。

日本には古来より幕府と朝廷と言う、
外国人には理解できない2重構造がありました。
幕末にペリーが徳川幕府と交渉したとき、
幕府の背後に朝廷がいることに交渉の途中で気付いたのです。
つまり始めは日本の2重構造が分からなかったということです。

この2重構造の形が古来よりあったとすれば、
中国皇帝は背後の朝廷の存在が分からなかったということです。

以上が私の推理です。
これによってこれまで謎とされてきた、
魏志倭人伝には邪馬台国の記述があるが大和朝廷の記述が無い。
逆に記紀には邪馬台国や卑弥呼の記述が無い。
ということが明確に説明できるのです。

邪馬台国が大和朝廷になったという説がありますが、
もしそうなら記紀に真っ先に書かれているはずです。
記紀に書かれてないこと自体がこの説を否定していることになるのです。


スポンサーリンク

 - 未分類