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大和朝廷と百済王家は同族だった

   

大和朝廷すなわち天皇家のご先祖は、
古事記や日本書紀の記述から、
元々は日向に住んで居られたと考えられます。

天孫降臨をされたニニギノミコトの4代後の神武天皇(イワレビコノ命)が、
畿内への東征によって初代天皇に即位され、
大和朝廷として本格的に日本の歴史が始まったのです。

では天孫降臨までの歴史はどうだったのでしょうか。
記紀に記されているからと言って、
まさか天皇家は天から舞い降りた神だった。
と信じている人はいないでしょう。

そもそも記紀は天皇の権威を高めるために作られたもので、
天孫降臨も神武東征も架空の出来事だと、
決めつけておられる歴史学者もおられるのではないでしょうか。

神武東征については数年前、
産経新聞の取材班が東征の足取りを調査し、
現地に残る伝説や言い伝えなどから、
神武東征は間違いなく史実だったと結論付けています。

天孫降臨が日向の高千穂の峰で起こったことから、
ニニギノミコトは日向に降臨する理由があったはずです。
この理由を、
日本を襲った自然災害から逃れられるための、
天皇家のご先祖の足取りを追うことによって解明したいと思います。

縄文初期の約7000年前に南九州は、
鹿児島の硫黄島で起こった海底火山の大噴火の影響で、
ほとんど人の住めない状態になっていたことが、
鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。

この事実を天孫降臨と結び付けて考えますと、
日向で住めなくなった天皇家のご先祖が、
高天原と呼ばれた地に疎開され、
時がたって自然が回復したために、
日向に戻って来られた出来事が天孫降臨だったと考えれば、
なぜ天孫降臨の地が日向だったのかという説明が付くのです。

では疎開先である高天原は何処だったのでしょうか。

天皇家のご先祖は常識的に考えますと、
火山灰の少ない北部九州に疎開されたはずです。
ところがその後縄文海進が起こり、
その時期の縄文遺跡が西日本で激減していることが分かっています。

恐らく海岸部が葦で覆われたために岩場が失われ、
重要な食材だった貝や海藻が激減したためではないかと考えられます。
その直後に朝鮮半島で北部九州の土器によく似た、
櫛目文土器が出始めています。

朝鮮半島は新石器が出土しておらず、
人が住んでいなかったと考えられます。
約6000年前になっていきなり高度な櫛目文土器が出現していることから、
九州の縄文人が移り住んだと考えられるのです。

天皇のご先祖も朝鮮半島に渡られたと考えられます。
移住先は半島の南西部。
すなわち後に百済となる地だったと考えられるのです。

なぜなら百済は大和朝廷と緊密な交流を続けているからです。
またこの地だけに、
天皇家の墓と言われる前方後円墳が見つかっています。

また記紀によりますと、
天照大神がニニギノミコトを送り出すときに、
葦原の中つ国を治めるように命じています。

すなわち高天原から日本は葦の中の国に見えていたと言うことです。
縄文海進によって日本の海岸部は葦に覆われたはずです。
朝鮮半島は気候の関係で葦は生息しませんので、
葦に覆われた日本を葦原の中つ国と表現したと思われます。

以上のことから、
高天原は朝鮮半島だったと言え、
縄文海退と火山噴火の影響が無くなって、
南九州でも人が住める状態に回復したために、
高天原の支配者であった天照大神が、
元々の故郷である日向に帰還を決断されたのだと考えられます。

以上から、
天皇家と高天原が元になった百済王家とは同族であり、
従ってその後のまるで属国のようなと表現されるような、
緊密な関係が持続していたのだと考えられるのです。

  *ちなみに新羅は肥後人、高句麗は薩摩人の国です。
   多くの証拠がありますので私の別の記事を参照してください。
   また磐井の乱は日向人と肥後人、
   熊襲との戦いは薩摩人と日向人との戦い。
   だったと考えられます。

  *沖ノ島を海の守り神として盛んに交流していたにも関わらず、
   言葉の障害を伺わせる資料が一切出ていないのは、
   両者が日本人通しだったからだと言うことでしょう。
   また沖ノ島には金銀のお宝も奉納されていたにもかかわらず、
   奪い合いにならなかったのは、
   両者が同族だったからではないでしょいうか。
   日本人通しでも同族で無ければ奪い合いになっても不思議ではありません。


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