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天孫降臨の実際のルートを考える

      2021/01/21

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天孫降臨とは古事記や日本書紀(以下記紀と略す)の記述によりますと、
高天原を支配する天照大神の命令で孫であるニニギノミコトが、
葦原の中つ国(日本の古称)に舞い降りたということになっています。

高天原の実際の場所にはいろいろな説がありますが、
どれも決定的な証拠がありませんので、
未だに明らかにされていないというのが現状です。

私は以前から高天原は朝鮮半島だと主張してきました。
改めてその根拠を示しますと。

(1)天皇のご先祖が朝鮮半島に渡る明確な理由があった。
(2)天照大神は日本を葦原の中つ国と表現している。
(3)出雲にはスサノウノ命は海を渡ってこられたという伝説がある。

(1)天皇のご先祖は元々は日向に住んでおられたと考えられます。
ところが硫黄島で起こった約7300年前の大噴火(鬼界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火)と
約6000年前の縄文海進によって、
九州はほとんど人が住めない状態になったことが土器の激減によって推測できます。
その直後から朝鮮半島で突然九州の土器によく似た櫛目文土器が出土し始めていることから、
九州で住めなくなった縄文人が朝鮮半島に移り住んだと考えられるのです。
日向に住んでおられた天皇家のご先祖も日向の住民と共に朝鮮半島に渡られたと考えられます。

(2)天照大神はニニギノミコトを降臨させるとき葦原の中つ国を治めるように命じています。
すなわち日本を葦の中の国と表現しているのです。
日本は縄文海進によって海岸部は多くの葦が群生したはずです。
このことは高天原から見て日本は葦の中の国に見えていたと言うことです。
もし高天原が日本国内にあったとすれば日本をこのように表現するはずはありません。
また天照大神はみずから降臨せず孫を降臨させていることから、
降臨には相当な困難が伴ったはずだと考えられます。
日本国内であればいくら高齢者でも付き添いがあればいけるはずです。
また行き来できるような場所であるなら降臨と言ういい方は適当ではありません。
朝鮮半島から見ると日本は正に葦の中の国に見えていたはずです。
孫を降臨させたくらいですから天照大神はかなりの高齢だったと考えられ、
玄界灘を渡れなかったのではないでしょうか。

(3)出雲にはスサノウノ命は海を渡ってこられたという伝説が残っており、
その時の船が石になったとされる地面から舳先が突き出たような岩が存在し信仰の対象になっています。
出雲の沖は朝鮮半島です。
高天原が朝鮮半島にあったとすればこの伝説の通りだと言うことになります。

では高天原が朝鮮半島にあったと言うことを前提に、
日向までの天孫降臨のルートを考えてみましょう。

ニニギノミコト一行は玄界灘を渡って宗像に上陸した後、
鞍手へのルートを選んだと考えられます。
宗像から鞍手に至る峠にはニニギノミコト一行を道案内した猿田彦が祀られており、
峠の名前も猿田峠と名づけられています。

 *猿田彦を祭ってある神社は他にもありますが、
  峠にまで名前が付けられている場所はここ以外ほとんどありません。
  四国などにもあるようですが天孫降臨との関りは考えにくいと思われます。

また鞍手には六が岳という山があって、
宗像大社に祭られている三女神は実際はこの山に舞い降りたという伝説が残されているのです。
三女神はニニギノミコトの叔母に当たりますので、
恐らく三女神はニニギノミコト一行をここまで見送ったのではないでしょうか。

一行は遠賀川をさかのぼって日向を目指したと考えられます。
記紀には韓国(カラクニ)に向かいと言う記述がありますが、
宮崎のえびの高原には韓国岳と言う山がありますので、
この一帯を韓国と呼んでいたのかも知れません。

さらに記紀には笠沙の岬という記述がありますが、
日向の愛宕山は昔は笠沙山と呼ばれていたそうで、
ここでニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと出会ったことになっています。

 *宮崎(日向)にはニニギノミコトの息子である海彦山彦から、
  初代天皇となられるイワレビコノミコトなど、
  天皇家の始まりに関わる数多くの伝説が残されています。
  宮崎が大和朝廷の出発点だったことは間違いないはずです。

*笠沙の岬の場所は鹿児島だという説もあります。
 
その後ニニギノミコトは出雲からの国譲りによって、
九州の東半分から中国地方にかけた広大な領土を所有することになり、
さにイワレビコノミコトが東征によって近畿を掌握して、
初代神武天皇として即位されたことによって、
天皇を中心とした本格的な日本の歴史が始まったという流れになります。

 *天孫降臨が行われたと思われる約3000年前(弥生時代)は、
  九州の人口が爆発的に増加した時期でもあります。
  これは稲作の広がりによる人口の自然増と言う説がありますが、
  私は縄文海進からの自然の回復で、
  朝鮮半島や中国大陸に移住していた住民が戻ってきたと考えています。
  天孫降臨も天皇家の元々の故郷である日向への帰還の行動だったと解釈できるのです。

 *神武天皇即位の紀元前660年が正しいとすれば、
  天孫降臨が約3000年前と言うのはおおむね妥当なはずです。
  天皇の家系図や記紀の信ぴょう性を疑っている専門家もおられますが、
  間違いだと言えるだけの明確な根拠は示されていません。
  日本人は歴史をねつ造するようなメンタリティーは持っていませんので、
  私は基本的に間違っていないと考えています。

ここでの天孫降臨のルートはあくまで素人である私の推測にすぎません。
数年前産経新聞の取材班が神武東征の足跡をたどり、
各地に残る伝説から間違いなく神武天皇は実在したと結論付けています。
産経新聞の取材班の皆さんにはぜひ天孫降臨のルートも解明してほしいと願っています。

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