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天皇家と百済王家は同族だった

   

昔から天皇は百済出身とか朝鮮人の血を引いているという噂が絶えません。
実際に続日本紀に桓武天皇の母君は百済出身という記述があるように、
天皇家と百済王家とは何らかの関係があるのではないかと思い調べてみました。

結論から書きますと、
まさに天皇家と百済王家は同族で、
日向に住んでおられた天皇のご先祖が、
火山噴火に追われて北部九州に移られ、
さらにその後の縄文海進による村落の水没によって朝鮮半島に渡られて、
後の百済を作られたというのが真実のようです。

以下で詳しく解説いたします。

縄文時代初期の今から7300年前、
鹿児島沖ですさまじい海底火山の大噴火が起こりました。
鬼界カルデラいわゆるアカホヤ大噴火です。

鹿児島で見つかった上野原遺跡の地層調査によりますと、
最大1mの火山灰層が見つかり、
それまであった縄文集落が消滅していることが明らかになったのです。

そこで生活していた縄文人たちは火山灰の少ない北部九州に移動したと考えられます。
隣の日向(宮崎)も同じ状況だったはずで、
そこに住んでおられた天皇のご先祖も北部九州に移動されたはずです。

天皇のご先祖の移住先は今の宗像市と福津市周辺ではないかと考えられます。
この領域は天皇との関連が深い前方後円墳が多く密集していることと、
天皇の祖である天照大神の3人の娘さん(3女神)が祭られている宗像大社が存在しているからです。
他の地域に比べこの場所が最も天皇家と関連が深いと考えられるからです。

ところが今から約6000年前になると今度は縄文海進によって村落が水没してしまいます。
これは佐賀で見つかった泥に埋まった東名遺跡が当時の状況を表しています。

ここでも住めなくなった天皇家のご先祖は当時無人だった朝鮮半島に渡られたのではないでしょうか。
この縄文海進が起こった縄文中期の土器が九州でほとんど見つかっておらず、
代わりにこの頃から朝鮮半島で北部九州の縄文土器とよく似た櫛目文土器が出土し始めているのです。
これは九州北部の縄文人が朝鮮半島に移り住んだ何よりの証拠です。

天皇のご先祖の移り住んだ場所は後の百済となる半島南西部と考えられます。
百済王家と天皇家(大和朝廷)の緊密な交流があった事実がこれを示しています。

頻繁な交流があったにもかかわらず言葉の障害をにおわせる記述が一切ないこと。
何より沖ノ島にお宝を納めていながら奪い合いにならなかったのは、
同族以上の余程の信頼関係がなければ成立しないはずです。

以上のことから天皇家と百済王家は同族以上の関係にあった。
と結論付けてよいと考えられます。

ちなみに今の韓国の人達はずっと後世になって大陸から入り込んだ人達で、
百済王家とは一切関係ないということを付け加えておきます。
韓国で見つかった前方後円墳は日本方式であることが分かっており、
また人骨も形態学的に日本人に近いことが証明されているからです。

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 - 古代日本史, 歴史