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歴史学は科学でなくてはいけない

   

科学と文学や政治学との違いはなんでしょうか。
それは科学には真実の追求と言う絶対的な価値観が存在しているのに対して、
文学や政治学には個人の主観や体制の違いによる複数の価値観が存在することです。

では歴史学はどうでしょうか。
本来歴史の真実は一つのはずです。
いつどこで戦争が起こったとか、
誰が主導してどちらが勝ったかなどは、
個人の主観や感覚で決まるものではありません。

その意味で歴史学は科学でなければいけないはずです。

ところが日本では歴史学は文学や政治学と同じ文系の学問に分類されています。

現在の歴史学には歴史観という言葉が存在します。
これは歴史をどうとらえるかと言う、
個人の歴史に対する主観を肯定しており、
明らかに文系的な概念と言えるでしょう。

科学には科学観という言葉はありません。
これは科学はあくまでも真実の追求であって、
そこには個人の主観が入ってはいけないということを意味しているのです。

私が地元の歴史館の学芸員の方と話した時、
しばしば、
「それはあなたの説でしょう」
ということで話が終わってしまうことがあるのです。

歴史学が文学なら個人の説で終わっても構いませんが、
歴史が科学なら真実を追求するべきで、
説で終わってはいけないはずです。

もう一つ私が理解できないのは、
邪馬台国と卑弥呼の実像が今なお不明であることから、
これを歴史のロマンと呼んでいることです。

本来歴史には真実があってロマンはありません。
解明されてないものをロマンと呼ぶならば、
科学でも解明されてないものはロマンと言うのでしょうか。

単に解明されていないだけのことなのです。

歴史学は探偵の仕事に似ています。
限られた手がかりから真実を見つけ出す。
その途中で容疑者は複数出てくるでしょう。
最後には証拠をそろえて犯人をしぼり、
最後に真犯人を特定する。

そこではじめて探偵として仕事が完結するのであって、
ロマンなどの言葉が入る余地はありません。

特に古代の歴史は文献が限られますので、
100%解明できるとは限りませんが、
最も可能性が高いものをとりあえずの歴史として認定すべきでしょう。

邪馬台国と卑弥呼の歴史は魏志倭人伝に記述されているだけで、
日本国内にそれを証明するものは未だに出ていません。
むしろその存在は疑問を感じることばかりです。

歴史学が文学なら許されるでしょうが、
科学とすればとても許されることではないのです。
真実と思われる証拠がないものを、
真実を追求することが目的の科学と言えないのは当たり前ですよね。


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