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天皇家の最初の領地は九州の東半分と百済の地だった?

      2016/12/26

北部九州の宗像市から宮崎市を結ぶ九州の東半分の領域には、
九州の公式な6つの神宮(英彦山神宮、宇佐神宮、宮崎神宮、霧島神宮、鵜戸神宮および鹿児島神宮)のすべてが存在しています。
神宮とは天皇など神代から始まる大和朝廷の主が祭られている神社で、
公式とは戦前までの国家管理のもと勅許、
すなわち天皇の許可を受けた神社という意味です。

神社は基本的にその土地を守るために作られるものであり、
天皇家の神社がすべてこの領域に集中しているということは、
この領域が天皇家の領地であったということに他なりません。

ではなぜこの地域が天皇家の領地であったのかを、
歴史的な流れに沿って見ていくことにします。

宮崎の日向はもともと天皇のご先祖がおられた地であることは、
古事記や日本書紀で記述されている通りです。
ところが約7300年前に鹿児島沖の硫黄島で起こった鬼界カルデラいわゆるアカホヤ大噴火によって壊滅的な被害を受け、
九州南部は人が住めない土地になってしまいました。
天皇家のご先祖は日向の住民と共に被害の少ない九州北部に移住されたはずです。

移住先は現在の宗像市周辺だったと考えられます。
根拠は宗像大社と八所宮の存在です。
宗像大社は天皇家の祖である天照大神の3人の娘さん(3女神)が祭られていますし、
八所宮は伊邪那岐、伊邪那美という両親が祭られています。
天祖の両親と娘さんが祭られている2つの神社が両方存在するような場所は他にはなく、
宗像市は天皇家と最もゆかりの深い場所だと考えられるからです。

その後約6000年前になって縄文海進が起こり、
この地域一帯の村落は水没してしまいます。
これは佐賀の東名遺跡が泥に埋まった状態で発見され、
当時の悲惨な状況を示しています。

九州では縄文海進の起こった時期だけ縄文土器がほとんど見つかっておらず、
代わりにこの直後から朝鮮半島でよく似た櫛目文土器が出土し始めることから、
九州の住民が朝鮮半島に移住したのではないかと考えられます。

朝鮮半島は縄の材料となる葦の生育領域から外れているため、
縄文土器を作ることができず、
代わりに櫛で文様を付けたため、
櫛目文土器になったのではないでしょうか。

天皇家のご先祖も村落の水没によって朝鮮半島に渡られ、
後の百済を作ったと考えられます。
百済は大和朝廷と属国のような関係と言われるように、
常に連携しているのは同族の関係であったからに他なりません。

頻繁な交易があったにもかかわらず、
言葉の障害を伺わせる記録がないことや、
沖ノ島に納められたお宝を一切持ち出してはならないなど、
同族でないと成立しない取り決めが守られていたのです。

縄文海進が収まってから天皇のご先祖は九州に戻ってこられ、
(私はこれを天孫降臨と考えています)、
その後の日本の歴史の始まりとなったのではないでしょうか。

以上のことから九州の東半分と百済の地は天皇家の初めの領地であり、
その後の出雲からの国譲りによって中国地方一帯を手に入れ、
初代天皇である神武天皇が東征されて大和朝廷を成立させ、
さらに日本武尊の熊襲征討と東国征討によって大和朝廷による全国制覇が成し遂げられた、
という歴史になったと考えられます。

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