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どのように大和朝廷は成立したのか?

      2019/05/27

大和朝廷の成立までの歴史は未だに明らかにされていません。
これは文字のない神話の世界にまでさかのぼるため、
古事記や日本書紀をどの程度信用するかで、
歴史の解釈が大きく分かれるためです。

ここでは記紀に書かれた神話を念頭に入れながら、
自然災害によって起こった大規模な人の移動の中で、
天皇家のご先祖がどのような行動を起こされたのかを見ることによって、
大和朝廷の成立過程を推測したいと思います。

記紀神話から天皇のご先祖は元々は日向に住んで居られたと考えられます。
ところが日向のある南九州は約7300年前の鬼界カルデラ、
いわゆるアカホヤの大噴火で人の住めない状態になったのです。
これは鹿児島で見つかった上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。

アカホヤの火山灰層の上下の地層から、
それまであった大規模集落が壊滅したことが分かったのです。
ここに住んでいた住民は絶滅したと思われていましたが、
全国各地でここで使われていた磨製石斧が見つかったことから、
大多数の住民は南九州から逃げ出したことが分かったのです。

常識的には大多数の住民は火山灰の少ない北部九州に移住したはずです。

*火山灰の深さは南九州で最大1m、
九州の中心の阿蘇で約15から20cmであることから、
九州の中ごろが生活が出来るかどうかの境だったと考えられます。
実際に北部九州では噴火後の約7000年前の土器が見つかっています。

ところがその後北部九州の縄文土器が激減しています。
この時期は縄文海進の時期と一致しており、
低地の集落が水没したために住民の多くは朝鮮半島に移り住んだと考えられるのです。

*佐賀で見つかった東名遺跡が当時の悲惨な状況を表しています。
すべてが泥に埋まった状態で見つかったのです。
その直後から朝鮮半島でよく似た櫛目文土器が出土していますので、
住民の多くは朝鮮半島に渡ったと考えられるのです。
縄文海進が起こると海岸線は多くの葦が発生し、
岩場を奪って貝や海藻を激減させたと考えられます。
海産物は縄文人にとって重要な食材ですので、
彼らは葦の生えない朝鮮半島に渡ったと考えられるのです。

日向に住んで居られた天皇家のご先祖も火山噴火によって、
まずは北部九州の宗像市一帯に移住されたと考えられます。

*これはこの地域が天皇家と深い関係があると思われる多くの証拠が残されているからです。
宗像には天照大神の3人の娘さん(3女神)を祀る宗像大社があります。
それに天照大神のご両親を祀る八所宮もあるのです。
そのほかここには天皇家を代表すると言われる前方後円墳が、
他の地域に比較して高密度で集中しているのです。
北部九州でここほど天皇家とのつながりを感じさせる場所は他にはありませんので、
ここが天皇家のご先祖の移住先だったと考えられるのです。

ところが前述のように縄文海進によって、
天皇家のご先祖も朝鮮半島に渡られた考えられます。

*昔から天皇は朝鮮半島から来られたという噂が絶えませんでした。
これは火山噴火と縄文海進によって天皇家のご先祖も、
九州の住民と共に朝鮮半島に渡られたからではないでしょうか。

天皇家のご先祖の移住先は半島の南西部と考えられます。

*この地は後の百済となる地で、
大和朝廷と百済王家との親密な交流を考えれば明らかでしょう。
続日本紀に桓武天皇の生母は百済出身とあるように、
同族関係にあったからこそこのような婚姻関係が結べたのです。
またこの地だけに十数基の前方後円墳が見つかっています。
これはこの地が天皇家のご先祖の移住先だったからに他なりません。

約3000年前になりますと火山噴火や縄文海進の自然災害が収まり、
九州には広大な平野部が残されます。
栽培技術の発達によって半島より栽培条件の良い日本列島に、
住民が戻ってきたと考えられるのです。

*再びこの頃の土器が北部九州で見つかっています。

*縄文海進の6000〜4000年前までの間の土器は九州ではほとんど発見されていません。

半島南西部の支配者が天照大神の時、
元々の故郷である日向への帰還を決断されたのではないでしょうか。
これが天孫降臨の神話として残されたと考えられます。

*このことから高天原は朝鮮半島だったと言えます。
天照大神はニニギノミコトを送り出すとき、
葦原の中つ国を治めるように命じています。
すなわち日本を葦の中の国と表現しているのです。
これは縄文海進が起こった時、
気候の関係で葦の生えない朝鮮半島に対して、
海岸部が葦で覆われていた日本列島を、
当時の人はこのように表現したのではないでしょうか。

ニニギノミコトの降臨の一年前、
スサノウノ命が出雲に追放されています。
スサノウノ命の息子である大国主命が巨大な出雲の国を建国しますが、
天照大神の命令によって日向のニニギノミコトに国譲りを命じられます。

大国主命は2人の息子に相談しますが、
結局国譲りを決断することになったのです。

*国譲り神話は作り話と思われていましたが、
国譲りの条件とされた巨大な神殿跡が見つかり、
国譲りが史実であった可能性が高まったのです。
また強大な出雲がなぜ争わずに国を譲ったかと言うことですが、
高天原を引き継いだ天照大神とその孫であるニニギノミコトは本家、
天照大神の弟であるスサノウノ命とその息子の大国主命は分家、
と言う関係になります。
昔は本家の権限は絶対的でしたので、
分家は本家の命令に逆らえなかったのではないでしょうか。

これによって日向の天孫族は九州の東半分と中国地方の、
広大な領土を保有したことになり、
ニニギノミコトから4代後の神武天皇の東征を容易にしたと考えられます。

*神武東征も作り話ではないかと言ういう説もありますが、
拠点を安芸(広島)と吉備(岡山)に移したときには争いは起こっておらず、
争いは畿内に入ってからですので、
国譲りによって安芸と吉備は領土内であったことになり、
話の辻褄が合っていることから、
神武東征も国譲りも史実であった可能性が高いと言えるのです。

ここでニニギノミコトのいわゆる天孫降臨のルートを考えてみましょう。
そもそも天照大神自身がなぜ降臨しなかったかと言うことですが、
孫を降臨させたくらいですからかなり高齢だったと考えられ、
玄界灘を渡れなかったと考えられます。

ニニギノミコト一行は宗像に着岸の後、
鞍手から遠賀川を遡ったと考えられます。
宗像から鞍手に至る峠は、
ニニギノミコト一行を案内した猿田彦の名前が付けられており、
そのわきに猿田彦を祀った豊日社があるのです。
また鞍手には六が岳という山があって、
宗像大社に祭られている3女神は、
実際にはこの山に降臨したという伝説が残されています。

*私はニニギノミコトの叔母に当たる三女神が、
ニニギノミコト一行をここまで見送ったのではないかと思っています。

記紀には韓国(からくに)に向かいと言う記述があります。
えびのには韓国岳と言う山がありますので、
この一帯を韓国と言っていたのかも知れません。

さらに記紀には笠沙の岬という地名が書かれており、
ここでコノハナサクヤヒメと出会ったことになっています。
延岡にある愛宕山は昔は笠沙山と言われていたらしく、
ここがルートであった可能性を示唆しているのです。

神武東征によって畿内に大和朝廷が開かれ、
後の日本武尊によって、
全国に勢力範囲が拡大したと言うことになります。

以上が大和朝廷成立までの神話の時代の推定される歴史です。

もし大規模な火山噴火と縄文海進が無かったら、
天皇家のご先祖も朝鮮半島に渡られる必要はなく、
朝鮮半島との交易もほとんど行われなかったと考えられ、
日本の歴史はかなり違ったものになっていたでしょう。

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