日本人のルーツと大和朝廷成立(神武天皇即位)までの歴史を整理する。
2020/12/23
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今回は私のこれまでの研究結果を箇条書きで整理してみました。
*印は根拠などの補足事項です。
(まずは日本人のルーツです。)
1.人類の先祖(ホモサピエンス)はアフリカからエジプトを出口として世界中に拡散しました。
2.中近東で今は絶滅しているネアンデルタール人と交わり肌の色が白い白色人種や黄色い黄色人種が生まれたと考えられます。
*最近の遺伝子研究の結果、アフリカを除く現代人から数パーセントのネアンデルタール人の遺伝子が見つかったのです。
ネアンデルタール人は色白だった可能性があり、
肌の黒いホモサピエンスとの交配で白や黄色の肌が生まれたと考えられます。
3.白色人種(コーカソイド)はヨーロッパへ、黄色人種(モンゴロイド)はアジアへ進出しました。
4、モンゴロイドがアジアの東の端まで到達した時、日本列島は大陸と北海道と九州でつながっていました。
*完全につながった状態ではなかったようですが、渡れる状態だったはずです。
5.日本人の初めの先祖(旧石器人:湊川人?:Gm遺伝子=ag、axg)はその両方から侵入したと考えられます。
*女性の遺伝子であるミトコンドリアDNAが関東でずれを生じています。
これは日本列島に侵入するとき北海道と九州の違うルートをとって関東地方でぶつかったために、
突然変異を起こしやすいミトコンドリアDNAにずれが生じたと考えられます。
また石器の形態にも東西で違いがあることが分かっています。
*縄文人は東南アジアから沖縄を経て侵入したという二重構造モデルがありますが、
Gm遺伝子が台湾と沖縄で全く違うためこの説は間違いだと考えられます。
また言語的にも琉球語と日本語は基本的に同じという研究結果があって、
台湾の中国語とは全く異なっていますので、
縄文人が東南アジアから入った可能性は少ないと考えられます。
*Gm遺伝子が(ag、axg)の人種は南米とオーストラリアの先住民に見られます。
湊川人はオーストラリア先住民に近いことが分かっていますので、
湊川人のGm遺伝子も(ag、axg)ではないかということです。
6.その後同じルート(北海道と九州)を別の人種(ab3st)が侵入して、
初めの先祖(ag、axg)と交わることによって縄文人(ag、axg、 ab3st )が生まれたと考えられます。
*ab3stは北東アジアに強く見られます。
*縄文人は現代の日本人(=弥生人)とも湊川人とも違っていることが分かっています。
7.縄文人は日本列島に広く生活の場を広げました。
*日本列島に広く縄文土器が見つかっています。
8.東南アジアから中国大陸を北上した新しい人種(afb1b3)が大陸と切り離されていた日本列島に北部九州から渡来系弥生人として侵入し、
縄文人(ag、axg、 ab3st )と交わって弥生人(=現日本人 ag、axg、ab3st、afb1b3 )が生まれたと考えられます。
*アジアにおけるGm遺伝子の分布を見ますと、afb1b3は東南アジアに強く見られ、
中国大陸を北上し日本に入るルートで減少していることから侵入ルートが推測できます。、
* afb1b3は北部九州から遠ざかるほど比率が小さくなっていることから、
渡来系弥生人は北部九州から侵入したことが分かります。
*Gm遺伝子はすべての人種を明確に予測できます。
例えば本文の繰り返しになりますが現代人は(ag,axg,ab3st,afb1b3の4人種の混合)
縄文人は(ag,axg,ab3stの3人種の混合)
港川人は(ag,axgの2人種の混合)
つまり港川人にab3stが加わって縄文人
さらに縄文人にafb1b3が加わって現代人になった。
というような考察が可能です。
Y染色体やミトコンドリアDNAは突然変異で変化しますが、
Gm遺伝子は変化することはありませんので人種の特定に有効なのです。
日本のルーツの解明にこのすばらしい成果が、
なぜもっと活用されないのか疑問に思っています。
(ここから先は天皇家の歴史です。)
9.天皇家のご先祖は元々は九州の東側の日向(宮崎)に住んでおられたと考えられます。
*宮崎には天皇家の発祥の地と思われる多くの伝承が残されています。
なぜ天孫降臨の地が宮崎だったのかということの答えにもなっています。
10.鹿児島沖の硫黄島で起こった鬼界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火で南九州は人が住めない状態になり、
天皇家のご先祖も南九州の縄文人にまじって北部九州(現宗像市周辺と思われる)に疎開されたと考えられます。
*これは鹿児島の上野原遺跡の地層調査で大噴火の後、それまであった高度な文明が消失したことが分かったのです。
ここで使われていた磨製石斧が全国で見つかっていることから、
南九州の縄文人が日本中に拡散したことを物語っています。
多くは最も近い北部九州に疎開したはずです。
*北部九州で見つかる曽畑式土器は約7000年前の南方系の土器であることが分かっています。
これは約7300年前のアカホヤの大噴火直後のものであることから、
これは正に南九州の縄文人が北部九州に疎開したことの証明になっています。
*宗像市は天皇家とのかかわりを示す多くの証拠が残されており、
他の地域に比べて天皇家の疎開先であった可能性が高いのです。
古来より宗像は宗像一族が支配していた言われており多くの前方後円墳が作られていますので、
宗像一族は正に日向から疎開された天皇家のご先祖だった可能性が高いと考えられるのです。
*神武東征は今の北九州市の岡田宮に一年滞在しています。、
宗像の八所宮の神(宮司)が赤い馬で出迎えたことから、
赤間(赤馬)という地名が残っています。
おそらく宗像の天皇家と東征の打ち合わせをしたのではないでしょうか。
このことからも宗像は火山噴火から逃れた天皇家の疎開先だったと考えられるのです。
11.縄文海進が起こり生活の基盤を朝鮮半島南西部(高天原)に移される。
*韓国国立中央博物館から出されていた古代朝鮮半島の年表を見ますと、
約12000年前から約7000年前まで空欄になっていて、
朝鮮半島は約5000年間は無人だったと考えられます。
その後約6000年前から突然北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出始めていることから、
九州の縄文人が縄文海進で半島に渡っていったと考えられるのです。
佐賀で見つかった東名遺跡が当時の悲惨な状況を物語っています。
すべてが泥に埋まった状態で発見されたのです。
この後九州の縄文土器は激減しています。
天皇家のご先祖も日向の住民と共に半島南西部に渡られたはずです。
半島南西部にだけ十数基の前方後円墳が見つかっていることや、
後にこの地にできる百済が大和朝廷(天皇家)と同族としか思えない関係を築いていることから、
ここが高天原だったと考えられます。
*もっと古い櫛目紋土器がウラル系の遼河文明に見られますが、
水資源の豊かな遼河から水資源の乏しい半島にわざわざ移動する理由が見つかりません。
またウラル系のY染色体はN系統であるのに対して半島はO系統なのです。
半島に渡ってから縄文人が真似たと考えるほうが遺伝子的に矛盾がないのです。
*高天原の実際の場所については諸説ありますが、
もし国内にあったとすれば日本を葦原の中つ国と呼ぶはずはありません。
縄文海進で日本の海岸部が多くの葦で覆われたため、
朝鮮半島から日本が葦の中にある国に見えていたからではないでしょうか。
*同じく朝鮮半島の北部に移住していた薩摩人や半島南東部に移住していた肥後人と競い合いました。
競い合いの中で文明が発達し、後に百済、新羅、高句麗が作られたと考えられます。
百済、新羅、高句麗と日向、肥後、薩摩の間にそれぞれにかなりの関連性を示す証拠が確認されますが、
私の一連の記事で紹介していますのでここでは割愛させていただきます。
12、縄文海進が収まった頃(約3000年前)に高天原を支配していた天照大神はスサノウノ命を出雲に追放し、
孫のニニギノミコトを元々の故郷である日向に降臨させました。
*この時期以降は弥生時代に当たります。この時代は九州の人口が爆発的に増加していて、
この原因を稲作の広がりと言われていますが、
私は縄文海進の収まりで大陸に渡っていた九州の縄文人たちが戻ってきたためだと考えています。
*出雲にはスサノウノ命は海を渡ってこられたという伝説が残っており、
その時の船が石になったという舳先状の岩が地面から突き出しており信仰の対象になっています。
このことは高天原が朝鮮半島にあったことを裏付けています。
*日本の古代文明はすべて中国からもたらされたものではなく、
基本的には日本人(南九州人)が朝鮮半島に移り住んで自ら作り上げ、
日本に帰還(天孫降臨など)してさらに東に伝える(神武東征など)ことによって、
その文明が日本中に拡散したということではないでしょうか。
13.高天原の支配者である天照大神の命令で国譲りが行われ、ニニギノミコトは九州の東半分から中国地方の広大な領地を手に入れます。
*九州の正式な神宮(天皇一族の支配者を祀る神社)は6つありますがそのすべてが九州の東半分にあります。
このことからも九州の天皇家の領地は九州の東半分だったと考えられます。
*国譲りは天照大神の命令で出雲の大国主命が日向のニニギノミコトに神殿の建設を条件に国を譲るという物語ですが、
日向は天照大神の直系すなわち本家で出雲は分家の関係になりますので、
分家は本家の意向に逆らえなかったのだと思われます。
国譲りは作り話と思われていましたが、国譲りの条件とされた巨大な神殿の柱の跡が見つかっています。
*神武東征の時、畿内に入るまでは歓迎を受けていて戦いは畿内に入ってからですので、
国譲りと神武東征は辻褄が合っていると言えます。
14.ニニギノミコトからイハレビコノミコト(後の神武天皇)まで天皇家は日向を拠点として活動されたと考えられます。
*これは日本神話として記紀に書かれていますが、記紀は各地に残る伝承が元になっており、
数年前に産経新聞の取材班が宮崎県内や神武東征のルートをたどり、現地で調査を行った結果、
記紀に記載されているよりはるかに多くの伝承が残されていることが分かり、
神武天皇は間違いなく実在したという結論に達しています。
15、イハレビコノミコトは兄たちと相談して東に拠点を移して畿内に侵攻しました。(神武東征)
*記紀に拠りますと一行は宇佐に立寄った後、北九州の岡田宮に1年、安芸(広島)に7年、
吉備(岡山)に8年滞在しています。
いずれも大歓迎を受けていますので日向の天皇家が本家(支配者)であったという認識が、
領地の広い範囲にあったのではないでしょうか。
16、イハレビコノミコトは畿内を制圧して橿原の宮で初代天皇として即位しました。
これによって日本は天皇を中心とした本格的な歴史が始まったのです。
いかがでしたか?
以上は私の勝手な根拠のない空想ではなく、
火山噴火や縄文海進などの自然災害に加え、遺伝子の変化、土器の年代、各地に残る伝説や言い伝えなどを総合的に考慮して導き出した結論です。
約3000年前の弥生時代に天孫降臨が行われたとしますと、
その4代後の神武天皇即位の紀元前660年はおおむね妥当な年代だと思われます。
戦後の自虐史観に基づく天皇の系図の否定は否定できるだけの十分な根拠は示されていません。
記紀は天皇の権威を示すために作られたものだという説がありますが、
権威を高めるような内容ではないことは一度でも読めば理解できるはずです。
記紀の記述は広い範囲で伝説として裏付けられているのに対して、
現在の歴史認識である邪馬台国と卑弥呼の存在は、
日本国内のどこにも裏付けとなる伝承が残されていません。
日本の歴史学会は裏付けの取れていないものを歴史として認定していると言うことです。
*邪馬台国の所在地と卑弥呼の実像について未だに論争が続いていること自体、
裏付けが取れていないことを意味しています。
日本人は大事な出来事は伝説として、また重要な人物は神社に祀るなど、
後世にその証拠を残してきました。
ところが邪馬台国と卑弥呼については伝説も祀られた神社も存在しないのです。
私は本来日本人は歴史をねつ造するようなメンタリティーは持っていないと考えますので、
魏志倭人伝より記紀の記述の方がおおむね史実と考えています。
*日本の歴史教科書は一部の大学の権威によって、
未だにGHQによる自虐史観が残っており、
多分に史実と異なる内容が散見されます。
今こそ国家事業として一部の学者に委ねることのない、
正しい歴史を追求する体制が必要ではないでしょうか。
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