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明治維新はイギリスが背後でコントロールしていたのか?

      2021/05/03

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明治維新はイギリス主導で行われ、
坂本龍馬はその手先に使われていただけだという意見がありますが、
私は全く間違った見解だと思っています。

まず初めに武士というものを考えてみましょう。

武士は自分の命よりも名誉を重んじ、
名誉が傷つく行動をしてしまったときは進んで切腹の道を選びました。

切腹は最高の名誉な死に方とされ、
名誉を与えられない罪人は切腹は許されず、
斬首という不名誉な死が与えられたのです。

武士としての心得は一朝一夕に身につくものではなく、
子供のころからの厳しいしつけによって生まれ、
武士はいつでも腹を切る覚悟を持っていたと言われています。

  *具体的に知りたい方は武士の心得で検索してみてください。
  *武士は自分で非を認めると自ら進んで腹を切ります。
   命乞いも弁解もしません。
   それが武士です。
  
現代の日本人や西欧人に簡単に理解できる世界ではないのです。

では本題を考えてみましょう。

武士が異国によって背後から操られる。
これほど不名誉なことはありません。
名誉を重んじる武士がそれを知りながら行動することは考えられないはずです。
   
江戸時代は平和な時代であったために、
多くの藩の武士たちはほとんど本来の武士の心を失っていましたが、
薩摩と長州それに土佐の下級武士など一部の武士は例外的に武士の心を失っていなかったのです。

これはこれらの藩は徳川幕府との特異な関係があったという事情からですが、
いずれにせよこの武士たちによって明治維新が行われたのです。

恐らく最近の日本人も含めて、
外国人には名誉のために切腹するという武士の心得は到底理解できないでしょう。

このことがイギリスによる安易な黒幕説を生んだのではないでしょうか。

薩摩も長州も強大な徳川幕府に一切ひるんでいるとは思えません。
幕末の志士たちは死を覚悟して倒幕運動をしており、
背後から操られているような軟弱な人たちではないはずです。

薩摩は生麦事件でイギリス人を殺傷していますし、
それが元になって薩英戦争を起こしています。

   *明治維新をイギリスがコントロールしていたなら、
    生麦事件自体が起こるはずはありませんよね。

また長州は瀬戸内海を通る外国船に対して攻撃を行っています。

いずれも敗北はしたのですが、
このような攘夷を決行した事実からして、
武士が外国人に操られるとは考えられないのです。

確かに西欧諸国の植民地政策は、
住民通しを対立させてコントロールするというやり方をとってきました。

他のアジア諸国ではうまくいきましたが、
日本には武士という金では動かない独特の精神性を持った人種がいて、
イギリスは日本支配は容易ではないと感じたはずです。

薩長は龍馬の仲裁で同盟を結び、
イギリスの武器商人グラバーから武器を調達しました。

だからと言って龍馬がイギリスの手先だと考えるのは、
武士の本質を知らない余りにも短絡的な思考だと思います。

龍馬の作った亀山社中は脱藩浪人の寄せ集めです。
脱藩は重罪で捕まれば当人の処刑に加え一族にも刑罰が科せられます。
すなわち攘夷のために命がけで脱藩した筋金入りの連中が、
社中の発展のためとはいえ攘夷の対象であるイギリスの援助を得るなどあり得ない話です。

さらには有名ないろは丸沈没事件がありますが、
昭和になって海底から引き揚げられましたが、
武器は全く見つからなかったのです。
これは龍馬は武器商人ではなかったということです。
武器を運ばない武器商人がいるはずはないですよね。
そもそも武器商人は基本的には政治的に中立で、
対立している両者に武器を売るものです。 

植民地支配の統治手段は現地を混乱させて収束させるというやり方です。
龍馬が実行した大政奉還は日本を混乱から回避するための策で、
イギリスの意図とは完全に真逆です。
これだけを見ても龍馬がイギリスに操られていたとはとても思えません。

問題の活動資金については、
基本的には自前調達(複数の藩から株で集める)ですが、

   *亀山社中は日本初の株式会社と言われています。
株は資金集めの手段で、
    背後にイギリスが付いていたら、
    このようなシステムを使う必要はないはずです。

援助資金としては亀山社中の時は薩摩藩から。
海援隊になってからは土佐藩からではないでしょうか。
特に薩摩藩は南蛮との密貿易によって、
幕府に引けを取らないほどの富を蓄積していた可能性があります。
いずれも従属関係というより協力関係だったと思われます。

また江戸城無血開城は徳川側の勝海舟と薩長側の西郷隆盛とのギリギリの話し合いで決まりました。
このような緊迫したシナリオをイギリス側が作ったということでしょうか?

日本を植民地にしたいイギリスからすれば無血開城は望ましくなく、
両者が争って疲弊する方が望ましいはずで、
結果はイギリスの思惑とは真逆になったのです。

勝海舟も西郷隆盛も西欧(当然イギリスも入っている)による植民地支配の実態をよく知っていて、
この争いを回避しなければ西欧の餌食になるということで無血開城になったのです。

これのどこにイギリスが介入する余地があるというのでしょうか。
若造の集まりだけで幕府を倒せたはずがないと言いますが、
彼らの背後には薩摩、長州、土佐という藩が付いていたのです。
    
また生麦事件はイギリス人に衝撃を与えた事件だったのです。
おそらくこの事件と薩英戦争によって、
賢いイギリスは日本の植民地政策は相当な危険を伴うと判断し、
方針を変更したと思われます。
一見無謀と思われる薩摩の行動が日本を救ったとも言えるのです。

イギリスは当初は日本を植民地にするつもりだったはずです。
しかし結果的に日本を植民地にできなかったのです。

これは多くのアジア諸国を支配した大英帝国でさえ、
日本だけはコントロールできなかったということを意味します。

もし本当にイギリスが明治維新を主導していたなら、
イギリス側にその文書が残っているはずです。
残っていればすでに歴史の事実として公にされているはずです。

これがこの記事の結論です。

   *イギリスは日本を簡単に制圧できたのにそれをしなかった。
    ということが日本統治の戦略だったように主張する人がいますが、
    制圧と統治は全く意味が違います。
    確かに戦力的には日本は一瞬で制圧されたかもしれません。
    しかし統治は命がけで向かってくる武士達を抑え続けなければならないのです。
    イギリスは薩英戦争で制圧はできても統治は無理だと判断したのではないでしょうか。
    それは生麦事件の恐怖があったからだと思われます。
    制圧と統治の違いをもう一度考えてほしいものです。

   *西欧人はすべての人は金で動くと思っているようです。
    ロスチャイルド家やロックフェラー一族の成功はこれを象徴しています。
    しかし武士は命より名誉を重んじ、
    まして金で動かされることは最も恥じるべきだと考えていたはずです。
    グラバーは日本人(恐らく武士のことだと思われます)は賄賂が効かないという言葉を残しています。
    これは武士が金では動かないことを表しています。
    イギリスの陰謀論を唱える人はこの武士の精神性が全く理解できていないと私は思っています。

   *金に対する武士の精神性は武士特有のものではなく一般庶民にもあったようです。
    イギリスの女性探検家イザベラバードの日本紀行の中に、
    旅行中に他国ではよくある料金の不当な請求やごまかしが日本では無かったと書いています。
    日本のこの嘘やごまかしを嫌う性質は買収を受けにくいことにもつながっていて、
    日本が国際資本に動かされなかったことも植民地化されなかった一因だと私は見ています。

   *尊王攘夷とは天皇を慕い外国を打ち払うという意味です。
    天皇は終始外国人を嫌っていました。
    このことを知っている勤王の志士たちが外国人の手下になるはずはありませんよね。
    いくらでも反論できますがこれくらいにしておきます。

日本は積極的に西欧諸国に学び多くのシステムを取り入れたことは間違いありません。
だから維新なのです。
薩長はイギリス(正確にはロスチャイルド家)の協力を受けたことは確かです。
問題はどちらが主導したかということです。
私は薩長が単なる操り人形だったという説を否定しているのです。
明治維新はあくまで日本人主導で行われたはずだと言いたいのです。
日本は植民地にされた他のアジア諸国と明らかに違うのがこの証拠です。

私の見解に異論のある方は是非コメントください。
私が間違っていると思ったら直ちに訂正記事を出すつもりでいます。

私はもしイギリスが明治維新を主導したのが事実なら、

『野蛮国であった日本を文明国にしたのは俺たちだ』

とイギリスは世界に誇るはずだと思います。

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