古代日本史の謎に答える
2022/01/11
情報メディア発信局へようこそ
古代日本には多くの伝説が残っていますが、
文字による記録が限られるために様々な謎が存在しています。
ここでは遺跡や自然現象の記録に加え、
最近明らかになった遺伝子によってそれらの謎(疑問)に迫ってみようと思います。
あくまで私見ですので異論のある方は是非コメントをお願いします。
疑問その1.なぜ邪馬台国の場所が未だに特定できないのか?
また、なぜ卑弥呼神社が存在しないのか?
(答え)
魏志倭人伝の東夷伝は陳寿の創作だったので、
そもそも邪馬台国も卑弥呼も実在しなかったと考えられます。
陳寿は3世紀の人であるのに対して、
遺伝子解析では中国人(漢民族)の遺伝子であるY染色体O系統が日本に入ったのは5世紀、
すなわち日本に漢字と仏教が伝来した時だったことが分かったのです。
このことから3世紀には中国人は日本には入っておらず、
陳寿が日本の状況知る時代ではなかったのです。
日本には邪馬台国と卑弥呼に関する記録は無く、
日本中に多くのさまざまな伝説が残っているにもかかわらず、
邪馬台国と卑弥呼に対してだけ一切伝説にも残っていないのは、
両者は実在しなかった可能性のほうが高いといえるはずです。
また邪馬台国の卑弥呼が収めたとされる倭国大乱、
すなわち30か国が争っていたと書かれている出来事は、
日本には該当する明確な証拠が残っていないのです。
*倭国大乱についても多くの説がありますが、
いづれも推測ばかりで明確な証拠とはなりません。
青谷上寺地遺跡の大量の損傷人骨の遺伝子解析では、
大半が渡来人だと分かりました。
すなわち倭国大乱の証拠ではないということです。
大乱は多くの人が被害を受けますので残りやすいはずですが、
一つも伝説に残らないのはあり得ないことです。
以上の理由から、
倭国大乱もこれを収めたとされる邪馬台国も卑弥呼も、
陳寿の単なる創作と考えられます。
古来より日本は重要人物は必ず祀られる習慣がありますので、
卑弥呼は実在しなかったから祀られていないと考えるのが妥当ではないでしょうか。
*私が他の記事で何度も書きましたが、
縄文時代に九州から大陸に多くの住民が渡りましたので、
陳寿の全くのフィクションではなく、
接触した九州人の話を参考にしたのではないでしょうか。
なぜなら日本人の特徴をかなり言い当てている部分もあるからです。
疑問その2.なぜ日本神話は史実ではなく単なる神話に過ぎないとされているのか?
(答え)
戦前は日本神話である古事記と日本書紀は史実として教えられていました。
戦後GHQは戦争の最高責任者であった天皇の権威を失墜させるために、
天皇の歴史をあらわした古事記と日本書紀を単なる神話の作り話と決めつけたのです。
戦前から邪馬台国と卑弥呼の歴史論争はあったのですが、
GHQによって邪馬台国と卑弥呼が日本の出発点であることを確定させたと言えます。
勝利したとはいえ他国の歴史を強引に変えることは明らかな国際法違反です。
国際法を冒してまで日本を破壊しようとしたのは、
アメリカが日本を如何に恐れていたかということです。
ここからは日本神話すなわち古事記と日本書紀を史実として考えていきます。
なぜなら国内に史実を裏付ける多くの証拠が発見されているからです。
疑問その3.天孫降臨とは何か?また高天原はどこにあったのか?
(答え)
高天原の実際の所在については多くの説が存在しています。
未だに天上界にあったと主張する人はいないと思いますので、
ここでは国内説と海外説について考えてみましょう。
もし国内にあったとしますと、
いくら交通機関が発達していなかった時代としても降臨という言葉は使わないと思います。
降臨というからには余程移動に困難を伴う場所だったはずです。
降臨先は出雲と日向ですが、
仮に高天原が関東や近畿にあったとしますと、
なぜ日本の中心から辺境の出雲や日向に降臨する必要があったのでしょうか?
逆ならわかりますがーーー。
では海外特に朝鮮半島にあった根拠をいくつか挙げてみます。
天孫降臨は天照大神の孫であるニニギノミコトが日向に降り立ったとされています。
なぜ天照大神自ら降臨されなかったのでしょうか?
おそらく高齢だったため玄界灘を渡れなかったのだと考えられます。
高天原が国内にあったのなら、
いくら高齢だとしても大勢の付き添いがあれば可能のはずです。
ではなぜ朝鮮半島に天皇のご先祖がおられたのでしょうか?
遺跡の発掘から、
朝鮮半島では約7000年前以前の土器が見つかっていません。
これは人がいなかった証拠です。
ところが約7300年前の鹿児島沖の火山の大噴火、
薩摩硫黄島の喜界カルデラいわゆるアカホヤノ大噴火の後、
北部九州の土器に類似した櫛目紋土器が出土しています。
これは火山噴火で住めなくなった九州の住民が朝鮮半島に移り住んだと考えられます。
*正確には朝鮮半島で見つかった櫛目紋土器の年代は約6000年前のものです。
南九州の住民は北部九州に疎開したのち、
縄文海進の進行とともに朝鮮半島に移住したと考えられます。
日向に住んでおられた天皇のご先祖も朝鮮半島に渡られたのではないでしょうか。
弥生時代になって九州の自然が回復し、
天皇家がもともとの故郷である日向に戻られたと考えると、
これが天孫降臨の神話として語り継がれたと考えれば辻褄が合うのです。
高天原が朝鮮半島だったと考えられる理由はあと2つあります。
一つが高天原では日本を葦原の中つ国すなわち葦の中にある国と呼んでいたのです。
約6000年前は縄文海進の最盛期で、
その後日本の海岸線は大量の葦に覆われたはずです。
朝鮮半島から見ますと日本は葦の中にある国に見えたはずです。
もし高天原が日本国内にあったなら日本を葦の中にある国などと呼ぶはずはありません。
もう一つの理由は天照大神の弟であるスサノウノミコトが降臨した出雲には、
スサノウノミコトは海を渡ってこられたという伝説が残っていることです。
その時の船が石になったという巨石が残っていて、
信仰の対象になっているのです。
出雲の沖は朝鮮半島です。
正に高天原が朝鮮半島であったことを物語っていると思いませんか?
疑問その4.国譲りは史実か?もしそうだとしますと、
なぜ強大な出雲が日向に国を譲ったのか?
(答え)
国譲り伝説は長い間作り話と思われていました。
しかし21世紀になって国譲りの条件とされた巨大な神殿跡が発見されたのです。
これは神話の記述とほぼ合致しており、
国譲りが史実だったことを物語っているのです。
ではなぜ強大な出雲が日向に国を譲ったのでしょうか?
通常は弱小の方が力に負けて国を譲るはずです。
しかし遺跡からは出雲が日向より弱小だったとは思えないのです。
この理由は高天原に対する出雲と日向の関係です。
出雲は高天原にいる天照大神の弟であるスサノオノミコトが降臨し、
子供の大国主命が巨大な国に作り上げたのです。
それに対して日向は天照大神の孫が降臨した国なのです。
すなわち、日向は本家、出雲は分家の関係になります。
昔は本家の権限は絶対で、
分家である出雲は本家の日向の要求に逆らえなかったのではないでしょうか。
疑問その5.神武東征は史実か?
(答え)
これは神武天皇は実在したか?という疑問とも関連しています。
これについては数年前産経新聞の取材班が、
神武東征のルートに沿って綿密な調査を行っています。
その結果ルート上に多くの伝承が残されており、
中には現実に起こらなければ残らない伝承まで存在したことから、
取材班は神武天皇は間違いなく実在したという結論になっています。
実は私は約15年間宮崎に住んでいて、
神武天皇の出生地とされる高原町には、
神武天皇の幼少期の伝説が多く残されていることを見聞きしていました。
もし神武天皇が架空の人物だったとしますと、
多くの伝説が作られるはずはありません。
また宮崎市には日本神話に登場する多くの地名が残されており、
日向が神話の中心地であったことは間違いなさそうです。
以上5つほど古代の疑問に答えてきましたが、
このような疑問を生んだ最大の原因はGHQによる日本統治です。
戦後GHQは神のような存在になり、
だれもGHQの意向に逆らえなくなったのです。
そのため古代日本史だけでなく、
近現代史ではアメリカは善で日本は悪だったという、
アメリカに都合のいい歴史に書き換えさせられたのです。
戦後70年以上たっても、
未だにこの構図は色濃く残されています。
ただネットの普及やべノナ文書の公開などによって、
やっと歴史の真実が明らかになり始めました。
今後が楽しみですね。
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