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なぜ記紀の記述には日向より出雲のことのほうが多く取り上げられているのか?

      2021/01/01

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記紀によりますと高天原から降臨したのは、
日向のニニギノミコトと出雲のスサノウノミコトです。

日向のニニギノミコトは天照大神の直系の孫、
出雲のスサノウノミコトは天照大神の弟、
すなわち日向は本家、出雲は分家の関係になります。

このため出雲が日向に国を譲るいわゆる国譲りは、
分家の出雲が本家の要求で日向に国を譲ったという解釈ができます。

それなら記紀の記述は本家である日向の方が多くなってもいいはずです。
なぜ出雲の方が記述が多いのでしょうか。

これは出雲と日向の位置関係と人口の差による、
大和朝廷成立の貢献度の違いだと思われます。

初代神武天皇(イハレビコノミコト)はナガスネヒコとの戦いに勝利して、
大和の橿原の宮で初代天皇となられました。

大和は敵地ですから国作りには多くの仲間が必要です。

日向と出雲を比較しますと、
出雲の方が距離的に近いだけではなく、
発掘調査でも分かるように出雲の方が人口が多かったと考えられます。

結果として日向よりはるかに多くの出雲人が大和朝廷成立にかかわったのではないでしょうか。

今なお学会では九州、出雲および近畿の勢力関係が議論されているようです。

天孫降臨、国譲りおよび神武東征を総合的に考えますと、
まず日向と出雲で降臨が起こり、
その後国譲りによって日向と出雲が統一された結果、
九州の東半分から中国地方は天皇家の領地になったと考えられます。

その結果、その後に起こった神武東征で拠点が吉備に移されるまで戦いが起こらず、
大和に入って初めてナガスネヒコとの戦いが起こっているのは納得できる話です。

結局出雲は国譲りで日向(本家)の領地になっており、
出雲が中心になって大和朝廷が成立したと考えれば、
記紀の記述の量の違いは大和朝廷成立の貢献度の違いだということではないでしょうか。

ともあれ
この一連の流れを見れば、
九州、出雲、大和の関連が説明できるのではないでしょうか。

   *出雲の荒神谷遺跡で発掘された358本の銅剣は、
    私が他の記事で説明しているように国内での戦いのためではなく、
    青谷上寺地遺跡で見つかった大量の渡来人の損傷人骨を考えますと、     
    中国大陸で生まれた強大な秦の始皇帝からの侵略から、
    大和王権を守るために出雲で食い止めるために用意されたものと考えられるはずです。

異論のある方は是非コメントをお寄せください。
これまでのところ私の一連の記事に対して反論のコメントはほとんどありません。
もし私が間違ってると判断したなら、
直ちに訂正記事を出すつもりでいます。

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