百済は日本人の国か韓国人の国か?
2023/04/25
情報メディア発信局へようこそ
韓国人はよく、
漢字と仏教は百済から日本に伝わったので、
韓国人が日本に文化を伝えたのだ。
と主張することがあります。
これは百済が韓国人の国だという前提があるからです。
しかし実は、百済は日本人の国だったという証拠の方がとても多いのです。
ここでは百済が日本人の国だった根拠を述べてみます。
1、もともと古代の朝鮮半島には人が住んでいない時期がありました。
これは韓国国立中央博物館の古代年表を見ますと、
約12000年前から7000年前の約5000年間に渡って土器が見つかっておらず、
人が住んでいなかった時期があったと思われるのです。
ところが約6000年前になって突然九州の縄文土器によく似た櫛目紋土器が出土していることから、
九州の縄文人が半島に移り住んだと思われるのです。
これが事実なら約6000年前以降は半島の住民は日本人だったということになります。
2.日本に残る古代文献の中に現代の日本語では理解できないものが、
古代朝鮮語で理解できるものがあるそうです。
これは古代朝鮮語は古代日本語と同じ、
すなわち古代の朝鮮人は日本人だった可能性が高いということです。
*現代の韓国語とは全く異なっています。
3.百済の地から十数基の前方後円墳が見つかっており、
前方後円墳は天皇家を象徴する日本固有の墳墓ですので、
朝鮮半島の前方後円墳も日本人が作ったはずです。
*この前方後円墳が見つかったとき韓国政府は、
前方後円墳も我が国が日本に伝えたことが明らかになったと大騒ぎしました。
ところが年代計測の結果日本のものより新しいことが分かり、
慌てて破壊するという行動をとったのです。
韓国政府にとってよほど都合が悪かったものと推測できますよね。
4.百済と大和朝廷は終始緊密な関係を築いており、
百済が白村江の戦いで滅亡しかかったとき、
大和朝廷は命がけで救出に乗り出しています。
百済が韓国人の国で単なる同盟関係に過ぎなかったら、
強大な唐と命がけの戦いを行うはずはありません。
5.百済が滅亡したとき、
百済王は日本(日向)に逃げています。
これは百済王は日本人でしかも日向は元々の故郷だった可能性があります。
*百済王伝説では最初は安芸(広島)に逃げ、
しばらく滞在のあと反乱軍の追撃を恐れて筑紫(福岡)を目指したが、
途中で嵐に遭遇して流され日向に漂着した。
ということになっていますが、
朝鮮半島に近い福岡はもっと危険なはずです。
このことを考えますと、
初めから元々の故郷である日向を目指す意図があったのではないでしょうか。
いかがでしたか。
遺伝子でもいくつかの根拠が示されているのですがここでは省略しておきます。
遺伝子解析をしますと、朝鮮半島で日本人男性が韓国人男性に入れ替わったことが分かります。
百済が韓国の国と主張されている方はぜひ根拠を示して反論してください。
*もしこの記事が正しければ、
日本の文明は古代日本人が朝鮮半島に渡って進化し、
弥生時代に戻ってきて全土に広がった。
というのが真実だったということになります。
*九州と朝鮮半島の土器の年代を追っていきますと、
本文のように日本の文明は朝鮮半島に渡った日本の縄文人自身で作り上げたものだと分かるはずなのに、
なぜ多くの古代歴史学者は気づかないのでしょうか。
それとも気づいていても、
あくまでも文明が韓国人からもたらされたということにしたいのでしょうか?
私には分かりません。
*日本人が朝鮮半島に渡ったことを地元にある歴史館の高名な館長に遺伝子で説明しました。
ところがその後自分は遺伝子はわからないと言って私を避けるようになったのです。
後で知ったのですが彼は韓国と深い関係があって韓国に多くの教え子がいることを知り、
私の言っていることが余程都合の悪いことだと知ったのです。
歴史学者なら自分の立場より真実の追及に努めてほしいと思っています。
それが歴史学者としての使命だからです。
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