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記紀に邪馬台国と卑弥呼の記述が無いのはなぜか?

      2023/06/28

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この理由として、

1.元々邪馬台国も卑弥呼も存在しなかった。

2.天皇家とは無関係だったので記述する必要がなかった。

3.大和政権が意図的に無視した。

などさまざまな理由が考えられます。

私はこれまで主に1.の立場で発信してきました。

今回は2.の立場で考えてみようと思います。

記紀の記述や九州内の神宮(天皇家を祀る神社のこと)の配置を見ますと、
天皇家の領地は九州の東側と考えられ、
西側は磐井(現在の熊本北部)と熊襲(現在の熊本南部)の領地だったと考えられます。

*九州東側の神宮:英彦山神宮、霧島神宮、鵜戸神宮、鹿児島神宮、宮崎神宮、宇佐神宮
九州西側の神宮:無し

これは天孫降臨が九州の東側にある日向で起こり、
神武東征で北上していることから行動範囲が九州の東側に限られており、
その後の九州の西側を領地とした磐井の乱やヤマトタケルによる熊襲征伐の歴史を考えたとき、
九州の西側は天皇家とは別の国が存在していたと考えられるからです。

さて本題の邪馬台国ですが、
邪馬台国がもし九州の西側(例えば吉野ケ里遺跡)にあったとすれば、
上記2.の天皇家と無関係だったので記述されなかった。
という項目に該当することになります。

*吉野ヶ里遺跡の場所は魏志倭人伝の記述と余りにも違いますのであくまでも仮にということです。

魏志倭人伝の研究から、
末盧国(=松浦半島ではないかと言われています)や、
伊都国(=糸島半島ではないかと言われています)などのように、
ほとんどが九州の西側にあるのです。

もしこの領域に問題の邪馬台国があったとすれば、
天皇家とは無関係の国ということになり、
記紀に記載がないのは納得できる話です。

*この場合は邪馬台国は磐井一族か熊襲の国だったということになります。

今仮に九州西側に邪馬台国があったとします。

邪馬台国から見ますとすぐ西は海をへだてて中国大陸なのです。

強大な中国の魏の脅威を感じないはずはありません。

邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送っても不思議ではないのです。

私はこれまで国内に一切の伝承がないことや、
卑弥呼が祀られた神社が存在しないことから、
邪馬台国も卑弥呼も陳寿の創作ではないかと考えてきました。

しかし仮に実在したとしましても、
以上のように天皇家とは全く別系統の勢力であったということになりますので、
邪馬台国と大和朝廷の並立は矛盾がないことになります。

ただ卑弥呼が実在したとすれば、
九州の西側に伝承や祀られた神社が存在するはずですが、
そのような明確な証拠が見つかっていないことから、
やはり架空なのかもしれないと思ったりもしています。

いずれにせよ邪馬台国も卑弥呼も存在していたとしても天皇家とは無関係だと思われますので、
その後の日本の歴史にはほとんど意味をなさなかったのではないでしょうか。

*私の記事で邪馬台国も卑弥呼も存在しなかった可能性が高いと言っているだけで、
断言しているわけではありません。
無いとか居ないという証明は悪魔の証明と言われ、
証明自体が不可能だと言われているからです。
例え存在していたとしても日本の歴史には何の影響も与えなかったのではないかと思われます。

卑弥呼と神功皇后同一説などの天皇家との結び付けは無理があると思っています。

*おそらく陳寿は九州から大陸に渡った縄文人の話を参考にしたのではないでしょうか。
日本人の特徴を言い当てている部分もありますし、
小国の名前も似通った地名が存在するなど、
全くの空想で書いたものだとは思えないからです。
ただ倭国大乱は中国人らしい誇張ではないでしょうか。
地域通しのもめごとを大げさに表現したと思われます。

*魏志倭人伝の記述の中に日本人の特徴として争いごとが少ないという記述がありますが、
同時に倭国大乱のように小国が互いに争っていたという記述もあります。
矛盾しているなと思うのは 私だけでしょうかーーー。

*また人が死んだとき喪主は泣き叫ぶという記述がありますが、
このような行為は日本人というより中国人の気質のような気がします。

最後に、
私は何度も発信しているように元々は理系の研究者でしたので、
勉強不足や多少の思い違いがあるかもしれません。
その場合は是非根拠をもって指摘していただきたいと思っています。
納得した時点で勝手ながら直ちに削除させていただくかも知れませんが、
ご了承いただきたいと考えています。

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