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私が魏志倭人伝は誤りで記紀こそが史実と考える理由と根拠

      2024/08/01

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私はこれまで魏志倭人伝は誤りで、

記紀こそが史実だと主張してきました。

ここでは改めてその理由と根拠を整理したいと思います。

まず魏志倭人伝が誤りと考える理由と根拠です。

1⃣〈魏志倭人伝が誤りと考える理由と根拠〉

1.倭国大乱

(理由)

日本国内に明確な戦いの痕跡がない

(根拠)

もし実際に30か国も戦っていたら、

戦いの伝説や損傷人骨および武器の破片など、

どこかにそれらしい痕跡が残っているはずです。

わずかな損傷人骨の出土では大規模な戦いが起こったとは言えません。

また環濠集落や高地性集落はそれ自体で倭国大乱の証拠にはなりません。

*最近の研究で環濠集落や高地性集落は倭国大乱以前から存在していたようです。

*一時期青谷上寺地遺跡で出土した100体余りの損傷人骨を倭国大乱の証拠と見た意見もありましたが、

遺伝子解析の結果ほとんどが渡来人だとわかり倭国大乱の証拠にはならないことがわかったのです。

すなわち、

大乱の起こった時期も、規模も、場所も全く解明されていないのです。

2.邪馬台国

(理由)

位置が特定されていない

(根拠)

もし実際にあったとすれば、

伝説だけでなく各地に残る風土記にもそれらしい記録があるはずです。

また記紀にも記録がないのは極めて不自然です。

大和政権が滅ぼしたとしても記録に残すはずですし、

まして大和朝廷の前身であったのならなおさらです。

魏志倭人伝に記載されている場所を検証しますと、

はるか沖合に位置していることになります。

3.卑弥呼

(理由)

どこにも祀られていない

(根拠)

日本人は重要人物はかならず祀ってきました。

隠れキリシタンでも分かるように、

たとえ何らかの理由で大和朝廷が隠ぺいしたとしても、

卑弥呼を慕う人たちがひそかに祀っている可能性があるはずです。

また古代の英雄である卑弥呼が伝説や風土記にも一切登場しないのは、

もともと存在しなかったと考えるべきではないでしょうか。

次に記紀が真実だと考える理由と根拠です。

2⃣〈記紀が真実だと考える理由と根拠〉

1.高天原

(理由)

高天原が朝鮮半島にあったとすると、

当時の自然現象や土器の年代と整合性がある

(根拠)

天皇家のご先祖が日向に居られたとしますと、

7300年前のアカホヤの大噴火で南九州は壊滅しましたので、

北部九州に疎開されたはずです。

その後縄文海進によって集落が水没し朝鮮半島に渡られたと考えられます。

これは土器の年代が証明しています。

南九州で見つかった約8000年前の土器は大噴火で消滅しています。

その後北部九州で見つかる曽畑式土器は約7000年前のものであり、

これは南方性の土器と言われています。

6000年前になると曽畑式土器も無くなり、

朝鮮半島でよく似た櫛目紋土器が出土しはじめています。

このことから天皇家のご先祖も南九州の住民とともに、

南九州⇒北部九州⇒朝鮮半島

と移住されてそこが高天原と呼ばれたと考えられます。

高天原では日本のことを葦原の中つ国と言っていますが、

これは縄文海進によって西日本の沿岸が葦で覆われたために、

朝鮮半島から見ますと日本が葦の中の国に見えたからではないでしょうか。

またスサノウノミコトが降臨した出雲には、

スサノウノミコトは海を渡ってこられたという伝説が残っているのです。

*高天原は関東にあったという意見がありますが、

日本を葦原の中つ国と言った理由が説明できないなど、

多くの疑問があります。

2.天孫降臨

(理由)

記紀に記述があるだけでなく、

当時の自然現象や降臨の理由に相当の根拠がある

(根拠)

大規模火山噴火と縄文海進で日向に住めなくなったため、

高天原(朝鮮半島)に逃れられた天皇家のご先祖は、

天照大神が支配者になった時、

南九州の自然が回復したことにより、

元々の故郷である日向への帰還を決意されたと考えられます。

高齢だった天照大神は丸木舟で玄界灘を渡れず、

代わりに孫のニニギノミコトを降臨させたのではないでしょうか。

北部九州の宗像から日向へ向かう途中には、

天孫降臨の道案内をされた猿田彦が祀られており、

この峠に猿田峠という名称が付けられているのです。

*猿田彦が祀られた神社は全国にありますが、

峠にまで名前が付けられているのは九州ではここだけです。

突然の降臨に驚いた日向の住民は、

立派な身なりの一行を見てまるで天から舞い降りたとしか思えず、

天孫降臨の神話として語り継いだと考えられるのです。

*天孫降臨は3か所で起こっています。

日向のニニギノミコト、

出雲のスサノウノミコト、

畿内のニギハヤヒです。

最終的には日向が統一し、

初代神武天皇として日本を治めていくことになります。

*高天原が関東にあったのならなぜ辺境の日向や出雲に降臨する必要があったのでしょうか?

また、なぜ天照大神自身は降臨できなかったのでしょうか?

いくら高齢でも大勢の付き添いがあれば可能なはずです。

3.国譲り

(理由)

出雲で国譲りの条件で建てられたと思われる神殿跡が見つかった

(根拠)

国譲りは出雲が日向に国を譲るという物語ですが、

なぜ強大な出雲が戦わず国を譲ったかと言いますと、

出雲は天照大神の弟であるスサノウノミコトの子供である大国主命が作った国であるのに対して、

日向は天照大神の直系の孫であるニニギノミコトの国です。

すなわち、

出雲は分家であるのに対して日向は本家の関係なのです。

国譲りは本家の要求に分家が抗しきれなかったのでしょう。

仕方なく神殿の建設を国譲りの条件としたのですが、

この神殿跡が見つかったのです。

記紀に記述がありかつ符合した建造物が見つかったのです。

これは国譲りが史実であったことを物語っています。

4.神武東征

(理由)

記紀に記された東征のルートに沿っておびただしい伝承が残されている。

また戦いが畿内で初めて起こるのは前項の国譲りと辻褄が合っている。

(根拠)

神武東征のルートに沿っておびただしい伝説が残っているだけでなく、

それを裏付けるような神社や地名も多く残されています。

これらがすべて架空のものとするにはあまりにも不自然です。

またここでもう一つ強調したいのは、

前項で述べた国譲りとつじつまが合うということです。

東征のルート上、

日向から吉備(岡山)まで争いは起こっておらず、

むしろ大歓迎を受けているのです。

これは国譲りの結果、

九州から中国地方は天皇家の領地になっていたからで、

しかも出迎えた各地の住民は、

イワレビコ一行が支配者だという認識があったから歓迎したのだと理解できます。

そして戦いは領地ではなかった畿内のナガスネヒコ(天孫ニギハヤヒの義兄)との間で初めて起こったのですから、

国譲りと神武東征は辻褄が合っているのです。

さらに記紀の記述に現在の地形と異なる場所がありますが、

最近の研究で時がたって地形が変化したことが分かったのです。

*当時の大阪はほとんどが海の底だった。

私も15年間宮崎に住んでいましたが、

神武東征に関わる地名や行事が今でも残されています。

全く架空の出来事を伝説に残すほど宮崎人は愚かではありません。

以上のように記紀はファンタジーな内容になっていますが、

大規模火山噴火や縄文海進などの自然現象や土器の年代の変化などと辻褄が合っており、

さらに多くの伝承や祀られた神社が存在するなど、

史実としか思えない証拠が無数に存在しているのです。

現在の歴史学者にお願いします。

根拠のない魏志倭人伝をいつまでも歴史の出発点にしないでください。

国の歴史は国民にとって拠り所になる大切な財産なのです。

*今の中国を見ていますと、

昔の中国人の残した文献が正確に書かれたものだとは、

わたしにはとても思えません。

皆さんはどうですか?

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