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百済、新羅、高句麗人は南九州人だった。あなたはどう思いますか?

      2016/04/20

皆さんは古代朝鮮の人たち(百済、新羅、高句麗人)がそもそも日本人だったのか外国人だったのかということを知りたいと思ったことはありませんか?
私はこのことが知りたくて、当時古代朝鮮との交流の玄関口であった福岡県宗像市にある海の道むなかた館を訪れ、何人かの学芸員の方々に尋ねたことがあります。
ほとんどの方の答えは?でした。
学芸員の方ですら分からなかった問題ですから一般の人たちが分からないのは当然です。
そこで私はできる限りの資料を探し、遺伝子、考古学等さまざまな方面からの資料を見、検討を重ねた結果、古代朝鮮の人たちは南九州の人たちでしかも次のような関係ではないかと考えるようになりました。

             百済人=宮崎人
             新羅人=熊本人
             高句麗人=鹿児島人

この根拠は次のとおりです。

 韓国の国立中央博物館の古代朝鮮の年表を見てみますと、約1万2千年前から7千年前の5千年の間全く遺跡が出ていないことが記されています。
遺跡が出ないとは人が住んでいた痕跡が無い、すなわち無人だったことを意味します。
それ以前の地層からは少しですが旧石器が出土していますので何らかの原因(食料となる動物をとり尽した、森林伐採により砂漠化したなど)で狩猟生活ができなくなったのではないでしょうか。
ところがそのすぐ後の地層から縄文土器が出土します。
ではこの縄文土器を作った人たちはどこから来たのでしょう?

 じつは丁度この時期6~7千年前に、鹿児島南方沖の硫黄島ですさまじい火山噴火(アカホヤの大噴火)が起こっています。
この火山噴火で南九州に厚さ約1メートルの火山灰が降り注いだことが分かっています。
当然全く作物の作れない人の住めない状態となったわけです。
南九州の大勢の難民が北部九州を目指したはずです。
おそらくその大半は無人であった朝鮮半島に渡ったことは容易に想像できます。
なぜなら韓国でこの年代の丸木舟の一部が出土しているからです。
 
 私は以前10年以上宮崎県に住んでいましたのでわかりますが、鹿児島、宮崎、熊本の人たちは気質がかなり違っています。
そのため朝鮮半島に渡っても交わることがなく住分けたのではないでしょうか。
鹿児島人の気質は独立心が強く中央の権力に容易に迎合しない所があります。
これは江戸時代、薩摩が徳川幕府に対し常に敵対し、終始独立性を維持したことに表れています。
これは高句麗が常に大和朝廷に敵対していたことから高句麗人の気質は鹿児島人の気質にそっくりなのです。

これに対し宮崎人の気質は正反対で中央へのあこがれが強く権力に素直に従う気質をもっています。
これは百済が常に大和朝廷に従い、まるで属国であるような関係にあったことから百済人は宮崎人の気質にそっくりなのです。

では熊本人の気質はどうでしょう?熊本人は臨機応変で多分に日和見的な気質を持っています。これは新羅が大和朝廷に対し敵対したり和睦したりしていることから新羅人は熊本人の気質にそっくりなのです。

 以上は偶然でしょうか?
偶然にしてはあまりにも出来すぎていると思いませんか?
特に百済と日向の国(宮崎)の関係をみるとこの考えは確信に変わるはずです。
日向の国は天皇のふるさとと言われている所で、天皇の物語である日本書紀にはさまざまな宮崎の地名が出てきます。
この天皇家と百済王はまるで一族であるかのような交流(桓武天皇の母君は百済王の子孫であると続日本紀に書かれているなど)をしていますし、百済が白村江の戦いで滅亡したとき百済王はじめ多くの百済人が日向に逃げ帰っているのです。
(現在百済の里、西の正倉院として観光の目玉になっている)

異民族同士でこのような関係が築けるでしょうか?
天皇家と百済王家が同郷の関係にあったからこそ成り立つことだと思いませんか?

巷では、天皇は百済の血を引いているとか天皇は朝鮮から渡ってきたとか言われて天皇を尊敬している人々からとんでもないと怒りの声を目にすることがありますが、そもそも天皇家のご先祖もアカホヤの大噴火による火山灰で朝鮮半島に疎開され、その後、日向の自然が人が住めるほどに回復したため、戻られただけのことだと解釈することができますので怒ることではないのです。
皆さんはどう思われますか?意見をお寄せくださいお待ちしております。

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