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大和朝廷と邪馬台国の関係について

      2016/03/14

大和朝廷と邪馬台国の関係は現在でさえ諸説あり、
研究者によっていろいろな解釈がなされ今なお統一の見解が存在しないのが現状です。
ここでは数少ない糸口を頼りに大胆な仮説を展開しようと思います。

私は可能性の一つに邪馬台国と大和朝廷は幕府と朝廷の関係ではなかったかと考えています。
幕末にペリーが幕府に開国をせまるための交渉を行ったとき、
はじめ徳川幕府を唯一の最高意思決定機関だと思っていたが、
交渉が進むにつれ背後に朝廷が存在し、
あらゆることが朝廷の許可を得ないと幕府には何もできないことに気づかされます。
すなわち幕府と朝廷の2重構造が初めはアメリカ側には全く見えてなかったのです。

この2重構造が古代日本にもあったとすると、
正に邪馬台国が政治を実行する幕府の役割を担い、
大和朝廷があらゆる祭りごとに許可を与える朝廷の役割を担う、
という2重構造の関係だったと考えられます。

従って、政治、外交一切を幕府に相当する邪馬台国が行っていたために、
古代中国から背後の朝廷(大和朝廷)が見えなかったのではないでしょうか。
魏志倭人伝に邪馬台国とそれを支配する卑弥呼の記述があるが大和朝廷の記述がないのが、
2重構造が見えなかったアメリカの初期の立場に似ています。

一方日本側の資料である古事記や日本書紀には逆に邪馬台国や卑弥呼の記述はありません。
これは古事記や日本書紀が天皇一族(朝廷)の物語であるからですが、
もし邪馬台国が全く別の勢力として大和朝廷と争った出来事があったのであれば、
当然記紀にも記載されているはずではないでしょうか。

以上の仮設の通り、
もしこのように邪馬台国と大和朝廷が日本の行政機関として表裏一体の関係であったのなら、
邪馬台国は神武天皇の東征に従ったと考えられ、
結果として邪馬台国の所在は初めは九州南部にあり後は畿内と言うことになって、
邪馬台国論争はめでたく決着ということになります。

素人の全くの空想話だったかも知れませんが可能性としては十分あると思っています。
なぜなら魏志倭人伝にある邪馬台国の記述が記紀には無いなどのいろいろな疑問が明確に説明できるからです。
皆さんはどう思われましたか?
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 - 古代日本史, 歴史