情報メディア発信局

様々な情報コンテンツを発信していきます!

土器の年代と古代人骨の遺伝子分析から古代日本で何が起こったかが分かる。

      2021/03/28

≪情報メディア発信局へようこそ≫

結論から先に書きますと、

(1)日本人は約4万年前に朝鮮半島と北海道の2つのルートから侵入した。

(2)約7300年前に薩摩硫黄島の大噴火(アカホヤの大噴火)で南九州から縄文人が逃げ出した。

(3)約6000年前をピークとした縄文海進によって西日本の縄文人が東日本や大陸に移動した。

(4)弥生時代になって大陸で生まれた秦の始皇帝の迫害を受けた縄文人が日本に逃げ帰った。

以上を土器の年代と遺伝子で順に説明します。

(1)日本人は約4万年前に朝鮮半島と北海道の2つのルートから侵入した。

   日本で見つかった最古の石器の年代が約3万8000年前ですので、
   約4万年前ということです。
   東日本と西日本の住民のGm遺伝子はほとんど同じです。
   Gm遺伝子は人種を表す遺伝子ですので人種的には両者は同じだと言えます。
   ところがミトコンドリアDNAは東西でかなり違っています。
   これは侵入ルートが異なったため突然変異を起こしやすいミトコンドリアDNAが東西で違いを生じたと考えられます。
   日本列島は朝鮮半島と北海道の2か所で大陸と繋がっていましたのでこの2つが侵入ルートということです。

       *ミトコンドリアDNAは女系の遺伝子で母方のルーツをたどることができます。
        突然変異(塩基置換)を起こしやすいことが分かっています。

       *石器や土器の形態も東西で違っています。
        また東西の言葉のアクセントの違いは縄文時代からあったという説があります。

       *二重構造モデルの台湾から沖縄への南方からの侵入ルートは、
        台湾と沖縄でGm遺伝子とミトコンドリアDNAに共に大きな違いがあることから、
        この説は間違いであると言えます。

(2)約7300年前に薩摩硫黄島の大噴火(アカホヤの大噴火)で南九州から縄文人が逃げ出した。

   これは鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになりました。
   大噴火のあと集落が壊滅し、 
   ここで使われていた磨製石斧が全国で見つかったことから、
   縄文人が南九州から逃げ出したことが分かったのです。

   上野原遺跡で約8000年前の土器が見つかっていますが、
   北部九州では約7000年前の曽畑式土器が多く見つかっています。
   この土器は南方性の土器と言われていますので、
   南九州の縄文人が北部九州に移動したことを示しています。

(3)約6000年前をピークとした縄文海進によって西日本の縄文人が東日本や大陸に移動した。

   約6000年前以降西日本の土器は極端に少なくなっています。
   これは人がいなくなったことを示しています。

   一方朝鮮半島は約7000年前以前は土器が見つかっていません。
   ところが約6000年前になって北部九州の土器によく似た櫛目文土器が出土し始めています。
   これは九州の縄文人が半島に移り住んだことを物語っています。

   また約6000年前以降西日本の人口が減少しているのに対して東北地方の人口は増加しています。
   これは西から東に住民が移動したと思われます。

       *この原因は私が他の記事でも説明しているように葦の繁殖にあったと思われます。

        葦は南方性の植物ですので東北地方や朝鮮半島は生息域を外れています。
        葦の繁殖は岩場を奪って海産物を激減させますので、
        葦の障害の少ない東北地方や朝鮮半島に移動したと考えられます。

        九州と東北地方の貝塚を比較したとき、
        出土した量は変わらないのに、
        約6000年前以降は圧倒的に東北地方の方が人口が多いということは、
        約6000年前以前は九州の方が人口が多かったはずです。
        これを見ても西日本の縄文人が東日本に移動した証拠と言えます。

       *黄河文明はブリタニカ大百科事典では約6800年前となっており、
        アカホヤの大噴火の500年も後ですので、
        日本人(大陸に渡った縄文人)が黄河文明を作った可能性があります。

(4)弥生時代になって大陸で生まれた秦の始皇帝の迫害を受けた縄文人が日本に逃げ帰った。
        
   約4000年前以降九州で再び土器が出土し始めています。

   また西日本の人口が急激に増加していることが分かっています。
   これまで弥生時代の人口増加は稲作の広がりによるものだと言われてきました。
   しかし増加があまりにも急激である不自然さは明らかでした。

   最近鳥取の青谷上寺地遺跡で見つかった約100体の弥生人骨の遺伝子検査の結果、
   90パーセント以上が渡来人であることが判明したのです。
   多くが損傷していることから大陸で起こった秦の始皇帝の誕生と多くの戦乱で負傷し、
   日本に逃げ帰ったと考えられるのです。
   もし彼らが日本人でなければ、
   日本語や縄文文化に大きな変化が起こるはずですが、
   ほとんど変化をもたらしていないということは、
   彼らは日本から渡った縄文人だったということです。

   一般に渡来系弥生人は縄文人に比べて大柄長顔であることが分かっています。
   これは縄文人が大陸に渡ってウラル系の人たちと交わったために骨格が変化したと考えれば納得できます。
   弥生時代の爆発的な人口増は大陸から逃げ帰った縄文人の可能性が高いと言えます。

      *大陸の遼河文明はウラル系の人たちだったことが分かっています。
       ウラル人は半分西欧人が混じっていますので大柄長顔であったはずです。

いかがでしたか。

教科書では縄文時代の記述が極めて少なく、
土器の形態や考えられる生活様式などが中心に書かれていますが、
この記事のように大規模な移動があったことはほとんど述べられていません。

しかし土器の年代や人口分布の変化に遺伝子の概念を加えますと、
これまでの縄文の概念が全く変わってくることがお分かりになったはずです。

      *私が調べた限り現在遺伝子が分かる歴史学者はほとんどいません。
       それは遺伝子をベースとした歴史学者の研究結果が見当たらないことで分かります。

異論のある方は是非ご指摘をお願いします。
   

スポンサーリンク

 - 古代日本史, 歴史