神武天皇は実在し即位が紀元前660年は間違っていないのではないですか?
2016/09/26
歴史学の中に、
神武天皇は実在せず天皇の権威を高めるために、
年代を意図的にさかのぼらせて紀元前660年にしたが、
実際は紀元後の出来事だったのではないかという説があるようです。
なぜそのように言われているのか詳しくは分かりませんが、
私は次の理由により多少のずれはあっても、
神武天皇は実在し、
即位紀元前660年は基本的に間違っていないのではないか、
と考えています。
1.日本人は嘘やごまかしは最も恥ずべきことだという基本的なメンタリティーを持っています。
落とした財布が無事戻るのも、深夜誰が見ていなくても信号を守るのはこの極端に生真面目な日本人の持つメンタリティーによるものです。
これを考えると朝廷が権威を高めるために意図的に系図をねつ造したとはとても思えないのです。
もし修正したといわれるのならしっかりとした証拠を示すべきです。
2.出雲で国譲りが史実であったことをうかがわせる巨大な神殿跡が見つかりました。
この神殿跡の年代測定から誤解が生まれているようですが、
神殿は何代にもわたり修復や建て替えを行いますので、
最初に建てられた時期を特定することは容易ではありません。
国譲りが史実だとするとこれを演じた天照大神、ニニギノミコトおよび大国主命は実在していたことになります。
また天孫降臨も史実だったことを意味していることになります。
天孫降臨は天照大神がスサノウの命やニニギの命に対して、
葦原の中つ国を治めるように命じたものです。
すなわち日本のことを葦の中の国という表現をしています。
日本が葦の中にある国に見えるところは朝鮮半島以外ありません。
すなわち高天原は朝鮮半島だったということです。
日向におられた天皇のご先祖がアカホヤの大噴火によって故郷を追われて北部九州に移動し、
さらに縄文海進による村落の水没によって無人の朝鮮半島に渡られたと考えられます。
縄文海進の起こった縄文中期に九州からの土器は極めて少なくなっており、
代わりに朝鮮半島からよく似た櫛目文土器が出土し始めるのは、
北部九州から朝鮮半島へ人の移動があった何よりの証拠でしょう。
朝鮮半島は縄の材料となる葦の生育圏から外れているために縄文土器を作ることができず、
仕方なく櫛で文様を付けたのではないでしょうか。
縄文海進は約6000年前がピークで、
約3000年前つまり紀元前1000年ごろは縄文海進も収まって、
ほぼ現代と同じ状態に戻っています。
これを見計らって天孫降臨が行われたと考えれば、
ニニギノミコトから4代後が神武天皇ですので紀元前660年は大きく違っていないことになります。
神武天皇の生存年数が長すぎるというのも、
系図改ざんの根拠になっているのかもしれませんが、
意図的であればむしろ逆に疑われないように妥当な生存年数にしてあるはずだと私は思っています。
3.鹿児島の上野原遺跡の地質調査でアカホヤの大噴火のあと集落が消滅し約3000年前から再び集落跡が確認されています。
日向も同じ状況だったはずですので、このころ日向にも集落が作られ、
北九州にかけて交流があったのではないでしょうか。
天孫降臨の際、猿田彦が道案内をしており、道案内ができるほどに地形に精通していた人がいたということです。
高天原である朝鮮半島から船で渡り、現在の宗像市付近に上陸して陸路で日向まで猿田彦が道案内をしたのではないかと考えられます。
途中高千穂を越えますが、
日向の住民にとって着飾ったニニギノミコト一行はまるで天から舞い降りたとしか思えなかったのではないでしょうか。
文字のなかった時代ですので天孫降臨の神話として伝わったと思われます。
以上1~3を考えますと天孫降臨と国譲りがおよそ紀元前1000年頃で、
ニニギノミコトの4代後の神武天皇が紀元前660年というのは、
かならずしも間違いではない計算になりますが、
皆さんはどう思われましたか?
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