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邪馬台国は大和朝廷の行政部門だった?

      2016/09/22

邪馬台国と大和朝廷の関係は今なお定説がなく、
邪馬台国の所在地すら学者の間で論争が続いているのが現状です。

そこでここでは次の2つの事柄から両者の関係を推理してみました。

1.古事記や日本書紀には邪馬台国の記述がない。
2.魏志倭人伝には邪馬台国の記述はあるが大和朝廷の記述がない。

もし大和朝廷と邪馬台国が全く別の勢力として並立していたか、
邪馬台国の後に大和朝廷が出現したのであれば、
1.のように記紀に全く記述が無いのは理解できません。

また、
2.の魏志倭人伝に大和朝廷の記述が無いのは、
大陸からは大和朝廷の存在が分からなかったと考えられます。

これらのことが説明できる両者の関係は1つしかありません。
大和朝廷は文字通りあらゆる外交や行政に許可を与える朝廷、
邪馬台国はその外交や行政を実行する行政部門という関係です。

記紀は天皇(朝廷)の物語ですので、
単なる行政部門にすぎない邪馬台国の記述が無いのは不自然ではありません。

外交の一切を行政部門である邪馬台国が行っていたのに対し、
大和朝廷は許可を与える立場であるために、
古代中国から見ると邪馬台国の存在は分かるが、
大和朝廷の存在が見えなかった可能性があり、
魏志倭人伝に大和朝廷の記述が無いというのも不自然ではないのです。

魏志倭人伝の中では卑弥呼を女王とされているが、
記紀には存在そのものの記述がないことから、
私は行政のトップであった卑弥呼を交渉上のテクニックとして、
朝廷の許可のもと中国との交渉時にのみ、
そのような身分を名乗ったと考えるのは飛躍のしすぎでしょうか?

幕末、ペリーが来航して日本に開港を迫るため幕府と交渉したとき、
開港するには朝廷の許可がいるということが交渉していて分かったのです。
すなわちアメリカは最初朝廷の存在が見えなかったということです。

この独特な日本の二重構造が古来からあったとすると、
古代中国からは大和朝廷の存在が見えなかったため、
あるいは意図的に日本側が大和朝廷の存在を隠したため、
魏志倭人伝に記述されなかったと考えれば説明が付くのです。

以上のように大和朝廷と邪馬台国の関係が朝廷と幕府(行政部門)という二重構造であったのなら、
邪馬台国は常に大和朝廷に従属していたはずですので、
その所在地は始めは九州で神武東征後は畿内ということになるのではないでしょうか。

邪馬台国論争は従来より九州説と畿内説があり、
それぞれに十分な論拠があることから、
ここで仮定した九州から畿内に移ったという説も、
十分な論拠があると言えるのではないでしょうか。

私にはこれ以外に考えられないのですが、
皆さんはどう思われましたか?


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 - 古代日本史, 歴史