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日本は弥生時代から大陸からの侵略の脅威を受けていた

      2021/02/01

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歴史教科書で大陸からの脅威に言及しているのは7世紀の白村江の戦いが最も古く、
それ以前は脅威というより渡来人という表現で、
例えば5、6世紀の漢字や仏教といった外国の文化を、
友好的に受け入れていたような表現になっています。

しかし鳥取の青谷上寺地遺跡の弥生遺跡で、
傷ついた100体以上の渡来人の人骨が発見され、
弥生時代のほとんどの遺跡は環濠がめぐらされていることを考えたとき、
従来の説である国内の集落通しの戦いではなく、
大陸で生まれた強大な秦の始皇帝からの侵略に備えた可能性が考えられるのではないでしょうか。

  *青谷上寺地遺跡で発掘された人骨の遺伝子検査の結果、
   90%以上が渡来人であることが分かったのです。
   私の他の記事で解説しているように、
   この渡来人は縄文時代に日本から大陸に渡った日本人の可能性が高いと言えます。
   この意味では渡来人というよりその前に使われていた帰化人と言った方がいいかもしれません。

弥生遺跡はほとんどが環濠でめぐらされていますが、
集落通しの戦闘をうかがわせるような、
例えば破損した武器の破片や損傷した人骨が、
ほとんど見つかっていないことから、
国内ではほとんど戦闘がなかったと考えられるのです。

教科書では環濠は稲作の広がりによって、
水争いや収穫物の略奪を恐れて作られたのではないかとされていますが、
この説は全く大陸からの脅威は考慮されていないと思われます。

白村江の戦いでは、
唐と新羅の連合軍に大敗した中大兄皇子は、
九州に防塁や水城を作り、
さらに首都を防衛に有利な近江に移すなど、
大陸からの侵略に備えています。

青谷上寺地遺跡の損傷人骨が、
大陸から逃げ帰った人たちだったとしますと、
当然大陸からの侵略に備えて対策を採るはずです。

これが環濠だったのではないでしょうか。

環濠は九州から東に広がりましたが東北地方には見られないことから、
集落通しの収穫物の奪い合いのためというより、
大陸からの侵略の備えと考えたほうが可能性としては高いのではないでしょうか。

青谷上寺地遺跡に近い荒神谷遺跡では358本の銅剣が見つかっており、
これほど多量の銅剣を用意する理由が議論されていますが、
これが正に大陸からの侵略に備えたものだと考えれば納得がいく話です。

これほど多量の武器を祭祀に用いるはずはありませんよね。

   *通常祭祀には数本あれば十分なはずです。

以上考察したように、
日本は古来から大陸からの脅威を受けており、
その起源が弥生時代までさかのぼるとすれば、
古代の日本が漢字と仏教を学んだような、
大陸とはおおむね友好的関係であったという現在の歴史認識は、
修正されるべきだと思いますがいかがでしょうか。

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 - 古代日本史, 歴史