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古代日本史の謎が解ける

      2020/07/12

古代日本の歴史は謎だらけです。
大和朝廷と邪馬台国の関係が未だに解明されていないなど、
最も根幹的な歴史すら明らかにされていないのです。

ここでは邪馬台国の存在を否定し、
大和朝廷のルーツとなっている日本神話を肯定する立場で、
今なお解明されていない次のような謎について考えてみようと思います。

1.高天原はどこか。
2.高天原でなぜ日本のことを葦原の中つ国と呼んだのか。
3.降臨はなぜ日向と出雲で起こったのか。
4.神武東征の出発点がなぜ日向だったのか。
5.百済が滅亡したときなぜ百済王は日向に逃げたのか。

これらの謎がすべて解けるのは
古代日本に次のような歴史があったからではないでしょうか。

約7300年前に薩摩硫黄島ですさまじい海底火山の爆発が起こりました。
喜界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火です。
これにより南九州の縄文集落が壊滅したことが、
鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになりました。

ここで使われていた磨製石斧が全国で見つかったことから、
南九州の住民が日本中に拡散したことが分かったのです。

おそらく最も多くは北部九州に疎開したはずです。
ところがその後縄文海進が起こり、
低地の集落は水没しました。
これは佐賀県の東名遺跡が証明しています。
すべてが泥に埋まった状態で発見されたのです。

その後西日本の土器は激減しています。

一方朝鮮半島は7000年前までの土器が見つかっていません。
これは無人だったことを示唆しています。
約6000年前以降になって、
北部九州の土器によく似た櫛目紋土器が出土し始めます。

北部九州の土器が無くなったすぐ後ですので、
常識的には北部九州の縄文人が渡ったと考えるのが自然です。
 
  *約4000年前以前の縄文時代の遺跡(土器)の年代を比較しますと、 
     南九州    約7300年前以前
     北部九州   約7000年前から約6000年前の間
     朝鮮半島   約6000年前以降

以上から南九州→北部九州→朝鮮半島
へと人の移動があったということです。

そこでこれを天皇家の歴史に当てはめてみましょう。

天皇家の元々の故郷は日向だったと考えられます。
ところが上記のアカホヤの大噴火で故郷を追われ、
日向の住民とともに北部九州に疎開されたと思われます。

  *北部九州にある宗像市には天皇家にまつわる証拠が多く残されています。

その後縄文海進によって、
後に百済ができる半島南西部に渡られたのではないでしょうか。
百済が大和朝廷と緊密な関係を維持し続けたことがこのことを物語っています。

もうお分かりになったはずですが、
以上が正しければ朝鮮半島南西部が高天原と言うことになります。

高天原の実際の場所については諸説ありますが、
当時実際に起こった自然現象と遺跡や土器の年代を考えますと、
以上のように朝鮮半島だったことが最も合理的に説明できるのです。

ではここで少し縄文海進が日本列島にどのような変化を起こしたのかを考えてみましょう。
海水面が上昇している間は地形の大きな変化は起こりません。
ところが海面上昇が止まりますと波の力で陸地が削られ、
列島各地に平らな浜辺が形成されます。

満ち潮で海に浸かり引き潮で露出する。
この状態は最も貝の生息に適しますので。
当時日本中で豊富に食材である貝が手に入ったことでしょう。

その後縄文海退が起こり海水面が下がり始めます。
多くの浜辺は満潮時にも海水が浸からなくなりますと、
湿地帯となり葦が繁殖を始めるのです。

約6000年前以降は海岸部の多くは葦に覆われたはずです。

葦は熱帯から温帯の植物ですので、
朝鮮半島や東北地方は生息域から外れています。

葦が繁茂しますと貝が生息できなくなります。
貝を重要な食材としていた縄文人は、
大量に葦の繁茂した西日本から朝鮮半島や東北地方に移動したのではないでしょうか。

このことは約6000年前以降西日本に比べて東日本の人口が圧倒的に多い理由と考えられますし、
西日本から朝鮮半島に移り住んだ理由になっていると思われます。

  *西日本と東北地方を比較しますと、
   6000年前以降の人口は圧倒的に東北地方の方が多いのに、
   貝塚の量はほとんど変わりません。
   これは6000年前以前は西日本の方が多く人が住んでいたことを意味しています。
   このことは縄文海進が西日本から東北地方へ住民の移動をもたらしたことを示唆しています。

ここで話を天皇家の歴史に戻しますと、
高天原である朝鮮半島から日本を見た時、
まるで日本が葦の中にある国に見えることから、
日本を葦原の中つ国と呼んだことが理解できます。

約3000年前になりますと縄文海進が収まり、
稲作の普及もあって、
住民の多くがより耕作に適した日本列島にもどって来たと考えられます。
事実この頃から西日本の人口が爆発的に増加しているのです。

高天原の天皇家も支配者が天照大神になったとき、
まず弟のスサノウノミコトが出雲に追放されます。
そのあと孫であるニニギノミコトが日向に降臨します。
出雲にはスサノウノミコトは海を渡ってこられたという伝説が残っているのです。

ニニギノミコトが降臨されたのは福岡ではなく、
それより何百キロも奥まった日向であったのは、
天皇家の元々の故郷が日向であったことを物語っています。

ニニギノミコトから神武天皇(イハレビコノミコト)まで南九州が活動の場であったことは、
記紀の記述の通りです。
神武東征が日向から始まったのは当然のことなのです。

白村江の戦いに敗れた百済王が日向に逃れたのは、
上記から解説の必要はないのではないでしょうか。

   *私は宗像市にある海の道むなかた館の複数の学芸員に、
    記事のような話をしましたが、
    誰一人明確な反論ができる人はおられませんでした。
    皆さんの中に異論のある方は、
    是非具体的に指摘していただきたいと思います。

   *そもそも日本神話は作り話と主張している人たちがいますが、
    日本各地に残るおびただしい伝承は、
    どのようにしたら作ることができるのか説明できる人がおられるのでしょうか?
    また天照大神を祀る神社はありますが卑弥呼を祀る神社はありません。
    しかし現在の歴史教科書は天照大神は架空で卑弥呼は実在になっています。
    日本人は架空の人物を祀って実在の人物は祀らないということでしょうか?
    この疑問を海の道むなかた館の館長にぶつけますと、
    彼は答えず逃げてしまいました。

   *私は個人的には日本の古代史を謎だらけにしているのは、
    日本の歴史学会が邪馬台国や卑弥呼は実在で、
    高天原や天照大神は単なる伝説の作り話。
    という位置づけにしていることだと思っています。
    


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