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古代朝鮮半島の住民は南九州人だった

      2021/01/23

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今の日本の歴史認識からすると、
いわゆるトンデモ説と思われるかもしれません。
しかし自然現象、土器の年代、遺伝子、住民の気質や文化の類似性など、
全ての項目がこのことを証明しているのです。

まず自然現象と土器の年代で見てみましょう。

約7300年前に鹿児島沖の薩摩硫黄島で大規模な海底火山の噴火が起こりました。
喜界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火です。
これによって南九州の縄文集落が壊滅したことが、
鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになりました。

ここで使われていた磨製石斧が全国で見つかったことから、
南九州の住民が日本各地に逃げ出したことが分かったのです。

恐らく多くの住民は最も近い北部九州に疎開したはずです。
このことは土器が証明しています。
約7000年前の曽畑式土器が多く見つかっていますが、
この土器は南方性の土器だということが分かったのです。

ところがその後縄文海進が進み、
低地の集落は水没してしまいました。
これは佐賀で見つかった東名遺跡が証明しています。
すべてが泥に埋まった状態で発見されたのです。

   *この遺跡は少し高台にありましたので奇跡的に残りましたが、
    他の集落は水没して完全に破壊されたと思われます。
    ただ貝塚だけは残りますのでこの量を比較しますと、
    九州と東北はほぼ同じなのです。
    約6000年前以降の遺跡に量は圧倒的に東北の方が多いということは、
    約6000年前以前は九州の方が多く住民がいたということですよね。 

その後約6000年前から4000年前の間、
北部九州でほとんど土器が見つかっていません。
このことは住民が居なくなったことを表しています。

住民はどこに行ったのでしょうか。

一方約6000年前まで朝鮮半島は無人でした。
これは以前出されていた朝鮮半島の古代年表で、
約6000年前以前の土器が見つかっていないのです。

ところが約6000年前になって、
突然北部九州の土器によく似た櫛目紋土器が出土し始めるのです。

これは明らかに北部九州の住民が半島に移り住んだことを表しています。

このように火山噴火と出土した土器の年代から、
南九州の住民が、
南九州→北部九州→朝鮮半島
と移り住んだことが分かります。

次に遺伝子で見てみましょう。

現在の九州人と韓国人の遺伝子関係は、

  1.男の遺伝子(Y染色体)は異なる。
  2.女の遺伝子(ミトコンドリアDNA)は同じ

という関係になっています。

もし両者が完全な別人種だったとしますと、
男も女も遺伝子が異なっているはずです。
ところが女性の遺伝子は同じなのです。

これはどういうことでしょうか。

考えられることは、
元々は同じ遺伝子の住民だったのが、
ある時点で男だけ入れ替わったということです。

戦いで男の遺伝子は入れ替わることがありますが、
女は勝った方の男に支配されるために入れ替わらないのです。

このことから九州と朝鮮半島には同じ遺伝子の住民が住んでいたと考えられます。

始めに述べたように土器は九州の方が古いことから、
九州から半島に渡ったと考えるのが自然です。
その後朝鮮半島だけ男が他民族に入れ替わったと考えれば納得できるはずです。

   *この出来事がのちに起こった白村江の戦いだと考えられます。
    言語学者が新羅の言葉が変化したと言っています。

最後に気質や文化で考えてみましょう。

ここで考えるのは三韓時代すなわち高句麗、百済、新羅と、
南九州の鹿児島、宮崎、熊本の気質と文化の比較です。

私は宮崎に15年間住んでいました。
その時気づいたのは南九州のこの3県の住民気質が全く違うということです。

気質は子孫に受け継がれますので、
何百年何千年経っても大きく変わることはありません。
南九州の住民が朝鮮半島に渡っても、
交わらずに住分けたとしますと気質や文化が引き継がれたはずです。

では個別に比較してみましょう。

まず高句麗と鹿児島の関係です。

鹿児島県民は独立心が強く、
中央の権力に対して容易に服従しません。
これは薩摩が徳川幕府に服従しなかったことを見ても明らかです。
一方高句麗は大和朝廷に対して服従したことはなく、
常に敵対関係を維持していました。
恐らく高句麗人も中央の権力に従わないという薩摩人と同じ気質を持っていたと考えられます。

戦前京都大学の梅原末治先生が高句麗の遺跡調査をした時、
亜熱帯地方にしか見られない高床式のカリエン家屋を見て驚いたという記録があります。

また鹿児島の歴史研究者が歴代の高句麗王の諡号(戒名)を調べたところ、
多くの諡号に鹿児島や沖縄の地名が付けられているそうです。

この二つの事例から鹿児島人が高句麗の地に入植したと考えれば納得できるはずです。

   *北朝鮮が大国アメリカに対して一歩も引かないのは、
    高句麗人つまり薩摩人の反骨の血のせいかも知れませんね。

次に百済と宮崎の関係で見てみましょう。

宮崎県民は鹿児島県民とおよそ真逆の気質を持っています。
中央権力に対してきわめて従順なのです。
前述のように私は宮崎に住んでいたのでよく分かります。

百済は大和朝廷に常に従っています。
まるで属国のようにと表現されることもあります。

宮崎は昔は日向と呼ばれ、
天孫降臨が起こり、神武天皇が東征された地と言われています。
すなわち大和政権の発祥の地でもあるのです。

白村江の戦いが起こったとき、
大和朝廷は命がけで百済救出のために派兵しています。

単なる同盟関係だったら命がけの派兵を行うでしょうか。
百済と日向が同族だったからだとしか思えません。

しかも百済が滅亡したとき、
百済王と百済住民は日向に逃げているのです。
このようなこともあって現在宮崎には百済の里が作られ、
観光名所になっています。

  *漢字と仏教は中国から百済を経由して日本に伝わったとされていますが、
   大和朝廷と百済は同族で、
   百済は大陸との交易の玄関口だったと考えればもっと納得がいくはずです。

以上から日向の住民が百済の地に入植したと考えるのが自然だと思われます。

最後が新羅と熊本の関係です。

熊本県民の気質は鹿児島県民と宮崎県民の中間的な気質です。
中央権力に対して決して宮崎県民ほど従順とは言えません。

これは新羅と大和朝廷との関係によく表れています。
敵対したり同調したりしているのです。

熊本は磐井の本拠地でもあります。
6世紀に岩井の乱が起こりました。
磐井が新羅と手を組んで大和朝廷に対し反乱を起こしたのです。

教科書では岩井が新羅にそそのかされてと言うことになっていますが、
元々同族関係にあったとすればもっと納得できるはずです。

磐井と新羅の装飾品が似通っていることも分かっているのです。

以上のことから熊本の住民の入植地は新羅の地だったと考えられます。

いかがでしたか。
偶然の一致とは思えない事柄ばかりだったはずです。
これでもトンデモ説だと言い切れますか。
反論のある方は是非具体的に指摘してほしいと思っています。

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 - 古代日本史, 歴史