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天皇家のご先祖は宗像一族であった?

      2016/05/01

天皇家のご先祖が日向の国(宮崎県)に住んでおられたことは、
古事記や日本書紀に書かれているので間違いはありません。
ところが南九州は約7300年前に起こったアカホヤの大噴火によって、
住めなくなった時代が4~5千年間もあるのです。

これは鹿児島で発見された上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。
火山の後それまで栄えていた縄文集落が無くなり、
その後はるか4~5千年後にならないと再び集落が作られていないことが分かったのです。

そこに住んでいた縄文人たちはどこに避難したのでしょうか?
絶滅したのではありません。
そうであるなら大量の人骨が出土しているはずですから。
おそらく被害の少ない九州北部に避難したはずです。

調査の結果上野原では灰の深さが最大1mであったのに対し、
九州のおよそ中間の阿蘇では15~20cmですので、
生活できるかどうかはおよそ九州の中程が境だったと考えられます。

南九州の住民は北部九州に避難したと考えられます。
宮崎に住んでおられた天皇一族のご先祖も、
日向の住民と一緒に北部九州に避難されたと考えられます。

その避難先はどこだと思われますか?
私は現在の宗像市付近だと考えています。
理由は宗像大社の存在です。
宗像大社は天照大神の3人の娘さんが海の安全を守る神として祭られているからです。

通常神社を建てる時は最もゆかりのある場所が選ばれるはずです。
宗像が百済との交通の要所であったこともありますが、
天皇家にとって宗像が最もゆかりの深い場所だったからではないでしょうか。

またこの地域一帯は九州でも特に多くの前方後円墳が集中しており、
前方後円墳が天皇家を象徴するお墓とすれば、
単なる偶然とは言えないのではないでしょうか。

では百済の国はどうして出来たのでしょうか?

今から6千年前は縄文海進といって海水面が最も高くなり、
海が陸地に入り込んで低地の集落は水没しました。
これは佐賀の東名(ひがしみょう)遺跡などで証明されています。

そこで宗像で住めなくなった天皇家のご先祖の一部は、
当時無人であった朝鮮半島に渡り後の百済の国を作ったと考えられます。

なぜなら、後の百済王家と天皇家(大和朝廷)が同族としか思えない緊密な交流をしているからです。

また天皇家の墓の代表である前方後円墳が宗像市と隣の福津市一帯に多く存在していますし、
朝鮮半島では百済の地だけに集中して見つかっていることもこれを証明しています。

宗像の地は古来より宗像一族が支配していたと言われてきました。
火山によって天皇家が避難されてこられたと考えれば、
正に天皇家のご先祖が宗像一族と言えるのではないでしょうか。

もちろん百済王家も天皇家の一族であり、

宗像一族と天皇家と百済王家はすべて同族

ということになります。

このように考えると、
朝鮮半島の古墳から出土する人骨が皆日本人だと言う調査結果と符合します。
百済は外国人と言う従来の考え方は矛盾が多いという証拠が出てきているのです。

今から3千年前になって、南九州も人が住めるほどに回復します。
これは上野原遺跡の地層で、再び3千年前から集落が現れているからです。
実は記紀によると初代天皇である神武天皇の5代前が天照大神ですので、
この時期とほぼ一致しているのです。

そこで天照大神は孫のニニギノミコトに命じて日向の国への帰還を模索されたと考えられます。
これが天孫降臨として語り継がれたのだと思われます。

ちなみに宮崎県にある西都原古墳群の最大の前方後円墳がニニギノミコトの墓だと言われています。
実は宗像大社の近くに大きな謎の前方後円墳があって宗像一族の墓ではないかと言われているのです。
前方後円墳が天皇家ゆかりの墓だとすれば可能性として天照大神の可能性が考えられます。
ニニギノミコトの墓が作られて天照大神の墓が作られなかったと考えるほうが不自然だからです。

亡くなられて約1500年後に作られたわけですが、
3人の娘さんが祭られている宗像大社の傍に作られるのが自然ですよね。
皆さんはどう思われますか?

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 - 古代日本史, 歴史