神話は作り話ではなかった?
鹿児島県霧島市で縄文時代の遺跡が発掘されました。
標高約250mの大地に広がる上野原遺跡です。
調査の結果、約9500年前には村落の跡が、
約7500年前には儀式が行われた場所が見つかり、
高度な縄文文化が築かれていたことが分かりました。
この発見は縄文文化の中心は東日本だという、
これまでの概念を覆す発見になったのです。
その後、7300年前に鹿児島沖の硫黄島でアカホヤの大噴火が起こり、
九州南部に最大約1mもの火山灰が降リそそぐ事により、
その文化は完全に破壊されてしまいました。
全く生活の出来なくなった南九州の縄文人たちはどこに避難したのでしょう?
最も可能性が高いのが、当時無人だった朝鮮半島に渡ったことです。
これを裏付ける証拠が韓国で見つかっています。
約7000年前の木製オールです。
彼らは丸木舟で日本海を渡ったと考えられます。
その後縄文土器に似た櫛目文土器が出土しているのです。
百済王と天皇家の親密な交流を見ると、
天皇の故郷である日向の人たちが、
後の百済となる半島南西部に避難したであろうことは、
容易に推測できます。
上野原遺跡ではその後の約3500年前から再び生活の跡が確認されています。
アカホヤの大噴火からおよそ4000年近く人が住めない時代があり、
その後住民が戻ってきたと解釈できます。
日向の国も回復し、百済の支配者も帰還を決意されたのではないでしょうか。
私はこの時の支配者が天照大神ではないかと考えています。
彼女は帰還のため孫のニニギノミコトを日向に派遣します。
日向には高千穂の峰がありますので、
これが神話に出てくる天孫降臨だと考えられます。
もしそうだとすると、高天原は百済の地、葦原の中つ国は日向(日本)、
さらに黄泉の国、すなわち死者の国はアカホヤの大噴火を起こした硫黄島一帯、
という解釈が成り立ちます。
なぜ日向(日本)を葦原の中つ国と呼んだのか分かりませんが、
当時は今より海水面が少し高かったことが分かっており、
九州北部はかなり内陸まで海が入り込んでいたため湿地帯も多く、
葦の原が広がっていたのかもしれません。
実際佐賀県の東名(ひがしみょう)遺跡は泥に埋まった状態で見つかり、
当時この一帯が湿地帯であったことを示しています。
百済から見ると日向が葦原の奥(中)にあるとみられていたのかも知れませんね。
一方弟のスサノウノ命は素行が悪かったために日向への帰還が許されず、
出雲行きを命ぜられたのではないでしょうか。
八岐大蛇伝説は、おそらく土地の豪族たちが一致団結して抵抗したため、
胴体が一つで頭が8つの怪物に例えられたと解釈できます。
その後スサノウの子孫である大国主の命の時、
ニニギノミコトへの国譲りが行われたのは、
同じ天皇一族の関係を考えると不自然な話ではないのです。
むしろ同族だったからこそ可能だったと考えられます。
国譲りが史実だったのではないかと言われているのは、
最近になって神話に出てくる巨大な神殿跡が見つかったからです。
私は、これから発掘や研究が進むにつれ、
すべての神話が何らかの史実に基づいて作られたものだということが、
明らかになるのではないかと期待しています。
みなさんはどのように思われましたか?
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