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うつ病との戦い(他力の勧め)

   

私は20代の頃うつ症状がひどく、
一日中気分がすぐれない日が続きました。
なんで生きることはこんなに辛いのか、
こんな苦しみがこれから一生続くのか。
と思っていました。

このままではいけない、何とかしなければと思ったのは、
就職して仕事を持った時で、
これではまともに仕事を続けることができないと感じたからです。

私はまず座禅にチャレンジしました。
その時は他力という概念は頭に無く、
ただ漠然と他力本願は他人の力を借りる情けない概念だと思っていました。

なんとか自分の力で克服したい。
座禅は自力の代表だと思ったからです。

無心でただ座る

曹洞禅の基本です。
座禅を始めたものの頭の中に次々と煩悩が駆け巡り、
何も考えないということはこんなに難しいことかと実感しました。

人間は考える葦である

これはパスカルの言葉ですが、
考えることは人間の本能であり、
何も考えないことは本能に逆らうことですから難しいわけです。

無心になろうとすればするほど無心になれないことに気づきました。
無心になろうとすることは、脳に意識が行っていること。
だから無心になれないのだ。
そう気づいたのです。

脳に意識をもって行かないようにする。
それは脳以外の部分を強く意識すること。
そう気づいたのです。

私は足に意識を集中させました。
すると、煩悩が消えたのです。
人間の意識は2か所に分散できない。
足に意識が行けば脳には行かない。
意識が行かないから脳は何も考えれなくなる。

私はこうして無心を会得したのです。

私はそれから仏教について本格的に学び始めました。
そこで分かったのは、
それまで対極にあると思っていた念仏(他力)と座禅(自力)に違いが無いということでした。

念仏は一心に唱える。
座禅はただ座る。

無心という意味では同じではないのか。
自分を無くしひたすら自然に身を任せる。
これは正に

両方とも「他力」である。

私の中でこう結論付けました。

人間はちっぽけな存在です。
こころはいつも大海の荒波に翻弄される小舟のように安定しません。
ころころ変わるからこころと言うのだと仏教の本に書いてあったように、
こころを安定されるのは本当に難しいものです。

なにか大きな存在(仏教では阿弥陀様や観音様、キリスト教ではGOD)をイメージし、
身も心も全てを任せる。
これが私の出した結論でした。

ちっぽけな人間が自力で悟る。
これは私に言わせれば大それた思い上がりです。

ならば、そんなプライドやこだわりを捨て、
生まれたままの子供のように素直になって、
なにか大きな存在(私の場合は観音様です)の胸の中に飛び込んでいってはいかがでしょうか。

常に揺れて安定しなかった私の心が観音様に抱き留められ、
現在わたしは、毎日安心の境地で生活しています。

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 - うつ病, こころ