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宗像市は天皇家の第二の故郷だった?

      2016/10/09

古事記や日本書紀によると天皇家の故郷は日向の国(宮崎)であったことはほぼ間違いなさそうです。
そこから初代神武天皇が東征されて大和朝廷が作られ、
日本の歴史が始まったとされています。

では神武天皇より以前の歴史はどうだったのでしょうか。
実際に起こった出来事や遺跡から可能な限り忠実に検証しようと思います。

まず約7300年前に鹿児島沖の硫黄島で大規模な海底火山の噴火が起こっています。
鬼界カルデラいわゆるアカホヤ大噴火です。
この痕跡は日本中に残っており、
特に南九州には最大1mの火山灰の層が鹿児島の上野原遺跡で確認されています。

これによってそれまで築かれていた縄文集落が消滅し、
その後約3500年前の地層から再び集落跡が確認されていることから、
南九州は約4000年間人が住めない状態だったことが分かります。

隣の日向の国も同じ状態だったと考えられ、
そこに住んでおられた天皇のご先祖も祖国を捨てて、
北部九州に移住されたと考えられます。

天皇のご先祖の移住先は現在の宗像市を中心とした地域だったと考えられます。
根拠はこの地域は九州でも最も多く天皇(大和朝廷)を象徴する前方後円墳が高密度で存在していること。
天皇の祖と言われる天照大神の3人の娘さん(3女神)が祭られた宗像大社が存在していること。
さらには天照大神の両親であるイサナギ、イザナミが祭られた八所宮の存在などです。

このことから宗像市がいかに天皇家と深いかかわりがあるかがご理解いただけると思います。
ところがこの約1000年後、
こんどは縄文海進が起こり低地の村落は水没してしまいます。
これは佐賀県の泥に埋まった東名遺跡が当時の状況を表しています。

ここでも住めなくなった天皇のご先祖は当時無人であった朝鮮半島に渡られたと考えられます。
根拠は土器の年代です。
縄文海進のピークだった約6000年前の土器が北部九州ではほとんど出土しておらず、
代わりに朝鮮半島から北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めるのです。

これは北部九州の縄文人が朝鮮半島に移住した何よりの証拠です。
その後の天皇家と百済王家の緊密な交流を考えると、
天皇のご先祖の移住先は後の百済となる朝鮮半島南西部だったと考えられます。

最近の遺跡調査で前方後円墳がこの地域だけに集中しているのです。
天皇のご先祖はこの地を統治され、
支配者が天照大神の時、日向に戻られるために孫のニニギノミコトを
派遣されたのではないでしょうか。

私はこれを天孫降臨と考えています。
根拠は日本を葦原の中つ国と呼んでいることです。
縄文海進が収まりほぼ現在の地形に戻った時期ですので、
平野部はほとんど葦で覆われていたはずで、
朝鮮半島から見ると日本は葦の中の国に見えたはずです。

日向に降臨したニニギノミコト一行は猿田彦の道案内を受けています。
おそらく海を渡って宗像市あたりに上陸し、
そこから猿田彦の案内で日向に下ったのでしょう。
おそらく宗像市から日向にかけて村落ができており、
猿田彦のように道案内できるほどの交流が行われていたと考えられます。

以上の考察から天皇家について、
第一の故郷は日向(宮崎)
第二の故郷は今の宗像市一帯
第三の故郷は朝鮮半島南西部(百済の地)
ということになるのではないでしょうか。

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 - 古代日本史, 歴史