古代朝鮮人は外国人か日本人か?
2016/11/04
古代において朝鮮半島からやってくる人々を渡来人と呼んでいます。
渡来人という響きから明らかに日本人とは異なる民族という認識があるのだと思います。
もしそうだとすると多くの疑問が湧いてくるのです。
例えば次のような事実をどのように説明できるのでしょうか。
1.古代の朝鮮半島と日本は頻繁な交流をしていることが遺跡からの出土品で明らかになっています。
ところが言葉の障害をにおわせる資料が一切出てこないのです。
交易には意思の疎通がなければ成り立たないはずです。
2.沖ノ島には航海の安全を願って8万点もの国宝が収められており、
中には金銀製の高価な装飾品も混じっています。
なぜ奪い合いにならなかったのでしょうか?
お互いに余程の信頼関係がなければ成立しないはずです。
3.百済と高句麗が滅亡したとき両方の王様は日本に逃げてきています。
支配者が異国に逃げることがあるのでしょうか。
4.朝鮮の正史である三国史記には新羅の4代目の王はタバナ国(今の兵庫県)から来たと書いてあります。
外国人を王様にしたというのでしょうか?
5.続日本紀には桓武天皇の生母は百済出身という記述があります。
一般人ならありうるでしょうが天皇家が外国とこのような関係を結ぶ必要があったのでしょうか?
これらのことは日本人通しだったならば容易に納得できる話です。
では日本人ではなかったという根拠はどこにあるのでしょうか?
1つには日本では縄文土器が作られたのに対し、
朝鮮半島では紋様の違う櫛目文土器が作られており、
櫛目文土器は中国内陸で分布しているため、ツングース又はウラル系の人たちではないかと言われているようです。
しかし土器が違うから違う民族、土器が同じだから同じ民族だと断定できるのでしょうか。
縄文土器の紋様は縄を押し当てたものです。
日本は縄の材料である葦が簡単に手に入りますが、
葦は温帯から熱帯に生息する植物ですので朝鮮半島は生息域から外れています。
縄が作れなかったため縄文土器の代わりに櫛目文土器が作られたとすれば、
紋様が違うから他民族だと決めつけるのは適当ではありません。
九州に住む縄文人は朝鮮半島に渡らなければならない重大な理由があったのです。
約6000年前の縄文海進によって低地の村落は水没してしまいます。
これは佐賀県で見つかった泥に埋まった東名遺跡が当時の悲惨な状況を如実に表しています。
九州ではその頃の縄文土器だけがほとんど出土しておらず、
村落の水没によって人がどこかへ移動したことを表しています。
丁度その時期から朝鮮半島でよく似た櫛目文土器が出土し始めており、
九州の縄文人が朝鮮半島に移り住んだと考える方が無理が無いのです。
彼らは縄文土器を作ろうとしたが縄の材料となる葦草が手に入らず、
仕方なく櫛で文様を付けた結果、
内陸部で作られていた櫛目文土器と類似したのではないでしょうか。
その後縄文海進が収まり、
朝鮮半島に移り住んでいた多くの九州人が本土に戻ったという事情から、
両者が日本人通しだったからこそその後の頻繁な交流にも言葉に障害がなかったし、
沖ノ島に多くのお宝を納めていたにもかかわらず一木一草を持ち出さないという、
共通の取り決めが守られたのではないでしょうか。
私たちははじめに朝鮮半島の住民は大陸からの異民族だというのが常識として固定化されてしまったようです。
そのためその後発掘された古墳の形式が日本式であったり、
出土した人骨の形態学的特徴や遺伝子の型が日本人であっても認めようとしませんでした。
間違った前提にこだわった結果無理な解釈を正当化する意見がまかり通ることになったのではないでしょうか。
研究者は硬直した固定観念は捨て、
あくまで真実を追求するという柔軟で純真な心は失ってほしくないと私は願っております。
スポンサーリンク