情報メディア発信局

様々な情報コンテンツを発信していきます!

天孫降臨の実際のルートを考える。

      2017/01/20

天孫降臨は高天原を支配していた天照大神の命令で、
孫のニニギノミコトが日向の高千穂の峰に降り立ったという、
日本書紀や古事記に登場する神話の出来事です。

日本神話はファンタジーな記述になっていることから、
所詮作り話だという認識から、
歴史学者は真剣に研究の対象にしようとしなかったのではないでしょうか。

私も以前は漠然とそのように思っていたのですが、
縄文時代の約7300年前に鹿児島沖の硫黄島で大規模な海底火山の噴火(鬼界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火)が起こり、
南九州は人の住めない状態になったということを知ったとき、
日向に住んでおられた天皇家のご先祖のその後の足取りを推定したとき、
天孫降臨は史実ではないかと思うようになったのです。

南九州は最大1mの火山灰が降り積もったことが、
鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。
数十センチも灰が降れば作物はもちろん海産物もすべて死滅してしまうはずですので、
とても生活を営むことはできません。

人骨が見つかっていないことから南九州の縄文人は死滅したのではなく、
被害の少ない北部九州に移動したと考えられます。
日向に住んでおられた天皇家も移動を余儀なくされ、
現在の宗像市付近に生活の拠点を移されたと考えられます。

宗像市は天皇家とのつながりを伺わせる多くの証拠が揃っています。

天皇家を象徴すると言われる前方後円墳がこの地に高密度で存在していること、
天皇の祖と言われる天照大神の両親であるイサナギ、イサナミを祭る八所宮が存在していること、
さらに天照大神の3姉妹を祭る宗像大社が存在していることなど、
宗像市は他の地域に比べて天皇家と深いつながりをより強く感じさせる場所なのです。

ところが約6000年前になると今度は縄文海進が起こり低地の村落は水没してしまいます。
これは佐賀県で見つかった東名(ひがしみょう)遺跡が泥に埋まった状態で発見され、
縄文海進の恐ろしさを如実に表しています。

このころの縄文土器だけが九州全域でほとんど見つかっておらず、
火山噴火と縄文海進により九州は無人化したと考えられます。

ではこの人たちはどこに行ったのでしょうか?

丁度この時期から朝鮮半島で北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めているのです。
縄文土器の文様は縄を押し当てたものですが、
縄の材料となる葦草は温帯から熱帯の植物であるため、
朝鮮半島は生息範囲から外れており、
縄が作れなかったため櫛で文様を付けたのではないでしょうか。

宗像に住んでおられた天皇家のご先祖も縄文海進による村落の水没で、
朝鮮半島の南西部に渡られたと考えられます。
これはこの地で誕生する後の百済が天皇家と同族としか思えないような親密な関係を持っていたことから、
天皇家の移住先だった可能性が高いと考えられるのです。

約3000年前になると縄文海進と火山噴火から自然が回復します。
朝鮮半島に渡っていた九州人の帰省が始まったのです。
これはこのころから九州の縄文土器が再び出土し始めることが何よりの証拠です。

天皇家のご先祖も故郷である日向に戻られることを決意されたのではないでしょうか。
私はこれを天孫降臨の史実と考えています。
支配者が天照大神の時、
高齢だった天照大神は海を渡ることができず、
代わりに孫のニニギノミコトを日向へ帰還させたのではないでしょうか。

天照大神がニニギノミコトを送り出すとき、
葦原の中つ国を治めるようにと言い渡しています。
すなわち日本を葦の中の国と表現しているのです。
これは縄文海進で日本の平野部はほとんど葦で覆われていたはずで、
朝鮮半島から見て日本は葦の中の国に見えていたのではないでしょうか。

さてここから本題の天孫降臨のルートの話に移ります。

以上からお分かりのように、
高天原は朝鮮半島南西部だった可能性が高いということです。
ニニギノミコト一行は天照大神の命令によって海を渡り、
第二の故郷ともいえる宗像に上陸した後、
猿田彦の道案内で日向を目指すことになります。

宗像から鞍手に向かうルートに猿田峠があり、
そのわきに猿田彦を祭る豊日社があり、
さらに遠賀川沿いにも猿田彦神社があることから、
一行はこのルートを遠賀川をさかのぼったのではないでしょうか。

鞍手には六ケ岳があり、
宗像大社に祭られている三女神は実際はこの六ケ岳に舞い降りたのだという言い伝えが残っているのです。

私はこれは三女神はニニギノミコトの叔母にあたるのですが、
この六ケ岳までニニギノミコトと同行し見送ったのではないかと考えています。
そこから先は若者のみのニニギノミコト一行が猿田彦の道案内で日向に下ったのではないでしょうか。

着飾ったニニギノミコト一行が高千穂の峰を越えた時、
先に帰還していた日向の住民は一行の立派な姿に驚き、
まるで天から舞い降りたとしか思えなかったのではないでしょうか。
文字のなかった時代ですので天孫降臨の神話として語り継がれたと考えられます。

皆さんはどう思われましたか?
私は日本人は勝手に作り話を歴史にするというメンタリティーはありませんので、
日本神話は何らかの史実に基づいていると思っています。

歴史学者は神話の世界を単なる作り話と決めつけず、
縄文時代に実際何が起こったのかを真剣に検証してほしいと願っています。
いきなり大和朝廷が出現するわけはなく、
縄文時代からの歴史の中で日本が作られていったわけですから、
研究対象としては魅力のあるテーマではないでしょうか。

スポンサーリンク

 - 古代日本史, 歴史