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古代遺跡と遺伝子から考える東アジアにおける人の移動

      2018/10/14

人間のルーツはアフリカ大陸にあることが分かっています。
これは世界各地で検出される男の遺伝子(Y染色体)と女の遺伝子(ミトコンドリアDNA)をたどりますと、
アフリカの一人の男性(Y染色体アダム)と一人の女性(ミトコンドリアイブ)に辿り着くからです。

*Y染色体とは
細胞の核にはXとYの2対の染色体があります。
XとXのときは女性、XとYのときは男性になります。
Y染色体は男だけが持っており父親から息子へ引き継がれて母親
は関与しないことから男の遺伝子と言うことができます。
この遺伝子は突然変異(塩基置換)によって変化することがあるため、
この変化を追っていくことによって男のルーツが分かるのです。

*ミトコンドリアDNAとは
核外のミトコンドリアにも遺伝情報が入っています。
この遺伝子は母親から娘に引き継がれて父親は関与しないことから
女の遺伝子と言うことができます。
この遺伝子は突然変異(塩基置換)を起しやすくY染色体の5~10
倍変化しやすいと言われています。
この変化を追っていくことによって女のルーツが分かるのです。

約20万年前にアフリカから北へ向かった人類の祖先は、
中近東でヨーロッパに向かう一団(後のコーカソイド)と、
アジアへ向かう一団(後のモンゴロイド)に分かれます。

*人類を特定する遺伝子にGm(グロブミン.マーカ)遺伝子があります。
この遺伝子は血漿(血清)中に存在する遺伝子で、
松本秀雄氏の長年の研究から人種を特定するにはこの遺伝子以外にないと断言された遺伝子です。
この遺伝子はほとんど突然変異を起こすことが無く、
コーカソイドとモンゴロイドに2つの同じ成分が含まれていることから、
途中までは同じだったと考えられるのです。
両者はその後新たに加わった成分の違いによって、
体格や肌の色が違うコーカソイドとモンゴロイドが誕生したと考えられます。

約6万年前にモンゴロイドが東の端に到達したとき日本列島は北海道と九州でつながっていました。

*完全につながっていたかは分かりませんが、
氷河期で凍結していたこともあって、
現在よりはるかに渡りやすかったことは事実です。

彼らはその2つのルートから侵入し関東地方でぶつかったと考えられます。

*これは遺伝子が証明しています。
日本列島の北から南までGm遺伝子がほぼ均一なのです。
これはもともと同じ集団だったことを表しています。
ところが女の遺伝子であるミトコンドリアDNAが関東より西と東北より東で違っているのです。
これはミトコンドリアDNAは変わりやすいためにルートの違いで差が生まれたと説明できるのです。

この人たちの時代を私たちは旧石器時代と呼んでいます。
旧石器時代の遺跡は日本列島にほぼ均等に見つかっていることから、
日本列島の広範囲で生活を営んでいたことが分かります。

*日本人の起源説には縄文人は南方から、弥生人は北方から来て交わったという2重構造モデルがありますが、
Gm遺伝子が台湾と沖縄で全く異なっているため私はこの説には否定的で、
松本秀雄氏が主張するように時期が違っても両方とも北方から侵入したと考えています。

ところが縄文時代になって縄文遺跡の出土から東西で大きな差が生まれたことが分かったのです。
縄文遺跡は西日本より東日本の方が圧倒的に多いことが分かっています。

なぜこのような違いが生まれたのでしょうか?
ドングリなどの食材の量の差だという説もありましたが、
東西で食材の量の差に顕著な差があるとは思えずこの説は説得力がありません。
何らかの別の理由によって大掛かりな人口の移動があったはずです。

まず最初に実際に人口の移動をもたらしたのが大規模な火山噴火でした。
約7300年前に鹿児島沖の硫黄島で海底火山の大噴火が起こりました。
鬼界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火です。
この噴火で南九州では人が住めない状態になってしまいました。
これは鹿児島の上野原遺跡の地層が証明しています。
アカホヤの噴火の後それまであった縄文集落が無くなっているからです。

*上野原遺跡のホームページでは約6300年前となっていますが、
全国各地に残る火山灰の年代では約7300年前となっていますので、
こちらの方が正しいと思われます。

集落はその後約4000年後にしか作られていませんので、
この噴火によって住民がどこかへ逃げ出したと考えられます。

*上野原遺跡からツボ型土器や耳飾りといった出土品が見つかっていますので、
高度な文明であったことが分かっています。
住民はすべて滅びたとされているようですが硫黄島までは最短でも約50kmありますので、
常識的には住民を絶滅させるような地理的条件ではありません。
多少被害を受けた住民はいたかもしれませんが大部分の住民は故郷を捨てて逃げ出したと考えられます。
ここで使われていた磨製石斧が本州でも見つかっていますので、
絶滅したのではなく逃げ出したと考えるのが普通でしょう。

最も可能性が高いのは火山灰の少ない北部九州への移住でしょう。

*私は南九州の住民は広範囲に拡散したはずだと考えています。
周囲の文明の年代をブリタニカ国際大百科事典などで調べますと、
中国大陸の黄河文明:約6800年前
朝鮮半島の櫛目文土器:約6000年前から
南米のインカ帝国:エクアドルで見つかった縄文土器は約5500年前
これらは南九州から住民が逃げ出した約500年以上も後であり、
しかもそれらの地域の住民のGm遺伝子は共通の成分を持っているのです。
このことから、
これらの文明は南九州から逃げだした縄文人が作った可能性が否定できないと考えています。

ところがその後縄文海進が起こり北部九州も人が住めない状態になってしまいました。

次に人口の移動をもたらしたと考えられるのがこの縄文海進です。

*縄文海進とは約6000年前をピークとして海水面が上昇した現象で、
低地の集落は水没したと考えられます。
佐賀で見つかった東名遺跡が当時の悲惨な状況を表しています。
すべてが泥に埋まった状態で見つかったのです。

しかし縄文海進は全国で起こっていますので、
海水面の上昇だけでは人口の移動を説明することはできません。
縄文海進の何が人口の移動を引き起こしたのでしょうか?

私はこれを縄文海進で発生した葦の分布にあると見ています。

葦は熱帯から温帯にかけての植物ですので、
朝鮮半島や東北地方は生息できません。
葦の分布は関東以西の九州、中国、近畿地方が中心だったのです。
これらの地方は縄文海進の頃に極めて遺跡の数が少なくなっています。

恐らく葦が岩場を奪ったために貝や海藻が激減し、
丸木舟で漁に出るときも大変な障害になったのではないでしょうか。
そのため葦の無い朝鮮半島や東北地方に移住したと考えられます。
縄文海進のピーク時に朝鮮半島で櫛目文土器が出始めていますし、
東北地方では人口の急激な増加が見られるからです。

この東西の人口(遺跡数)の偏りは弥生時代になって逆になります。
すなわち弥生遺跡は東北地方より関東より西の地方の方が圧倒的に多くなっているのです。
その後縄文海退が起こり縄文晩期にほぼ現在の地形になっています。
稲作や野菜の栽培技術が向上したことから狩猟に頼る必要が無くなり、
広大な平野部と温暖な気候が栽培に有利な条件となった為に、
住民の東から西への逆流が起こったと考えられるのです。

*ただ例外的に関東地方は縄文から弥生まで一貫して人口が保たれています。
これは関東地方には利根川や多摩川と言った大型の河川があって、
サケが遡上していたために海に依存する必要はなく、
そのため縄文海進の影響を受けなかったと解釈できるのです。

以上のように自然現象が人の移動を引き起こし、
特に火山噴火と縄文海進が古代の歴史に大きな影響を与えたことは、
古代遺跡の分布が証明しているのです。

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