東日本で弥生文化への移行が遅れたのはなぜか。
弥生文化は稲作を抜きに語れません。
弥生時代になっても東日本で稲作が行われなかったために、
東日本で弥生文化が遅れた言われているのです。
青森の亀ヶ岡遺跡では縄文晩期に優雅な土器や遮光器土偶など、
高度な縄文文化があったことが知られています。
高度な文明を持っていたにもかかわらず、
稲作の行われた形跡がないことから、
弥生文化に移行できなかったと言われているのです。
なぜ東日本は稲作が行われなかったのでしょうか。
縄文前期の三内丸山遺跡では、
クリなどの作物の栽培が確認されています。
作物の栽培技術が発達していたために、
稲作の必要がなかったという事かも知れませんが、
最も可能性が高いのが気候が原因だったと考えられるのです。
稲は葦の仲間です。
葦は熱帯から温帯にかけての植物ですので、
関東平野が生育の北限になっています。
東日本特に東北は葦の仲間である稲は生育できなかったはずです。
*現在では品種改良によって北海道でも稲作が行われていますが、
元々は寒冷地は稲作には適さないのです。
江戸の開拓時代に人の努力によって行われるようになったのです。
このことから東日本は稲作が遅れ、
そのことが弥生文化が遅れたと言われる理由になっていますが、
文明自体は非常に高度であったことは確かです。
ただ弥生時代になると東北地方は人口が激減しています。
これは米の流通が活発となり、
米が経済の中心的な役割を果たすようになったと考えられ、
米の取れない東北地方は衰退していったと考えられるのです。
*貨幣の無い時代は米が貨幣の代わりをしていたと考えられます。
米は主食ですので万人共通の価値を持ち、
しかも少量単位に分けることができて流通に適していることから、
単なる食料としての役割以上の働きをしていたと言えます。
縄文時代の人口分布は東に偏っていましたが、
弥生時代は逆に西に偏るようになっています。
このことが米の流通が弥生時代の生活の基盤になった、
と言うことを物語っているのではないでしょうか。
その後の日本は米が経済の基盤になったことを考えますと、
弥生時代にこの基盤が作られたと言えるのではないでしょうか。
弥生時代は大型の集落ができて身分制度が生まれ、
争いが起こるようになったのは、
大陸から渡ってきた弥生系の人たちが交わったためだと考えられます。
弥生人は九州から入ってきたことは遺伝子が証明しており、
争いは西日本から東日本に広がっていったのは、
平和な縄文人の中に好戦的な弥生人が侵入していったことを、
その後の戦争の歴史が証明しているのです。
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