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古代において朝鮮半島と九州の間で何が起こったか?

      2019/12/25

以前、韓国国立中央博物館から出されていた古代年表を見ますと、
約12000年前から約7000年前の間は空白になっていて、
この約5000年の間は朝鮮半島は無人であった可能性が高いのです。

まだ遺跡が見つかっていないだけだと主張する人もいますが、
12000年以前の旧石器は見つかっているのですから、
その間が見つかっていないだけのはずは無いのです。

ところが約6000年前になって、
突然九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めます。

このことは常識的に考えますと、
九州の縄文人が何らかの理由で半島に渡ったと考えることが出来るのです。

実はこの時期は縄文海進の最盛期と重なっており、
海が大陸奥地にまで入り込んで、
低地の集落を水没させてしまいました。
この証拠が佐賀の東名遺跡です。

東名遺跡は高度な文明を持っていたにもかかわらず、
すべてが泥に埋まった状態で発掘されたのです。

  *詳しくは東名遺跡のホームページを参照してください。

その後西日本では縄文土器が激減しているのを見ますと、
縄文海進が西日本の生活環境を著しく悪化させたと考えられます。

  *私は他の記事でも再三書いているように、
   この原因は葦の繁殖にあると考えています。
   葦はイネ科の植物ですので、
   東日本や朝鮮半島は生息域から外れていますが、
   生息域であった西日本は多くの葦に覆われたはずです。
   葦に覆われますと岩場が奪われて、
   多くの貝や海藻が激減したはずです。
   また丸木舟で漁に出かけるにも大変な障害になったはずです。

西日本の縄文人は、
葦の生えない東日本や朝鮮半島に移住したと考えられます。
この時期に東日本では明らかな人口増加が、
朝鮮半島では櫛目文土器が出土し始めるからです。

以上の理由で九州の縄文人は朝鮮半島に渡ったと考えられます。

ここで少し時間を遡って九州で起こった出来事を見てみますと、
約7300年前に起こった硫黄島の海底火山の噴火、
鬼界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火で、
南九州は人が住めない状態になっています。

これは鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。
火山噴火によって集落が壊滅したことが分かったのです。

  *詳しくは上野原遺跡のホームぺ—ジを参照してください。

以前はこの噴火で南九州の縄文人は絶滅したと思われていましたが、
ここで使われていた磨製石斧が全国で見つかったことにより、
多くの住民が南九州から逃げ出したことが分かったのです。

当然磨製石斧は北部九州でも見つかっていますので、
常識的には住民の大部分は最も近い北部九州に移住したはずです。

ところが前述の縄文海進によって生活環境が悪化し、
九州の縄文人の多くは朝鮮半島に渡ったと考えられるのです。

私は15年程宮崎に住んでいました。
ここで分かったのは、
宮崎、鹿児島、熊本3県の県民気質が全く違うと言うことでした。
宮崎人は中央の権力に対して従順であるのに対して、
鹿児島人は薩摩が徳川幕府に従わなかったことで分かるように、
中央の権力に容易には従わないという気質を持っています。

つまり両県民は全く正反対の気質を持っているのです。
その意味では熊本人はおよそ中庸という感じでした。

この3県の気質が、
朝鮮半島で後に登場した、
百済、高句麗、新羅の気質に符合しているのです。

百済は大和朝廷に対して常に従属しています。
これは宮崎県民の気質に類似しています。

一方高句麗は大和朝廷に常に敵対しました。
これは鹿児島県民の気質に類似しています。

新羅はと言いますと、
大和朝廷と同調したり敵対したりと言う関係です。
これは熊本県民の気質に近いようです。

これらの関係は偶然でしょうか?
私は基本的に県民気質は受け継がれるはずだと考え、
何百年何千年経っても変わらないと考えていますので、
南九州の3県民の気質は交わることなく、
朝鮮半島に渡っても住みわけが行われた結果、
交わらずに百済、高句麗、新羅に引き継がれたと思われます。

  *北朝鮮が強大なアメリカに対して一歩も引き下がらないのは、
   北朝鮮は高句麗の地であり、
   鹿児島の縄文人の入植地であったとすれば、
   中央の権威に対して決して従わないという、
   鹿児島の県民気質が引き継がれているのかも知れません。

朝鮮半島に渡ってもこの3県民は常に競い合った形跡があり、
その結果高度な文明が生まれたのです。

弥生時代になって西日本は著しい人口増加が見られますが、
これは縄文海進が収まった後広大な平野部が出現し、
栽培技術が発達したこともあって、
東日本や朝鮮半島に比べて栽培条件に良い西日本に、
移住していた多くの住民が戻ってきたと解釈できるのです。

  *鳥取県にある弥生遺跡の人骨調査で90%以上が渡来人だったことが分かりました。
   しかし言葉も文化も遺伝子も変化をもたらなかったのです。
   これは渡来人は元々日本から渡って行った縄文人だったということを意味しています。

  *記紀の記述が正しければ、
   天孫降臨はこの時期だと考えられます。
   天照大神はニニギノミコトに対して、
   葦原の中つ国を治めるように命じています。
   すなわち日本を葦の中の国と表現しているのは、
   縄文海進によって、
   日本が葦に覆われたことを意味していると考えられます。

以上をまとめますと、
古代の九州の縄文人が朝鮮半島に渡って高度な文明を築き、
縄文海進の収まりと共に日本に戻ってきたことから、
日本の歴史書では、
高度な文明が大陸から伝わったという間違った?歴史認識が 
形成されたと言うことではないでしょうか。

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