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日本人が黄河文明を作った可能性はないのか?

   

約7300年前鹿児島沖の薩摩硫黄島ですさまじい海底火山の爆発がありました。
喜界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火です。
この大噴火によって南九州はほとんど人が住めない状態になりました。

ここに住んでいた縄文人はどうなったのでしょうか?
以前は絶滅したと思われていましたが、
ここで使われていた舟を削るために使われる磨製石斧が全国で見つかったため、
多くの縄文人が南九州から逃げ出したことが分かったのです。

さて今回のテーマである黄河文明ですが、
黄河文明の年代は、
ブリタニカ大百科事典によりますと約6800年前、
ウイキペディアによりますと約7000年前となっており、
いずれもアカホヤの大噴火より数百年も後なのです。

中国大陸にももっと古い土器は見つかっていますが、
文明と呼ぶからにはそれなりの規模の大きさがあったはずです。

南九州の縄文人が火山噴火で逃げ出して黄河流域で黄河文明を築いた可能性はないでしょうか。
私は年代的に見て十分ありうると考えています。

もう一つの根拠は、
弥生時代になって多くの渡来人が日本列島に押し寄せています。
ところが日本人の遺伝子も、文化も、言語も、
在来の縄文人にほとんど変化を及ぼしていないことが分かったのです。

これは何を意味していると思いますか?

そうです。
渡来人自身も日本の縄文人だったということです。
このことは大陸に縄文人が住んでいたということです。
おそらくアカホヤの大噴火で逃げ出した一部が大陸に渡り、
黄河流域に定住したのではないでしょうか。

皆さんの中に、
縄文人が丸木舟で東シナ海を渡れるのか?
という疑問を持たれる方がおられるかもしれません。

しかし日本は元々海洋民族で、
山岳地帯の多い日本列島は陸より舟で移動する方が楽で、
縄文の時代からかなり広範囲に舟による物流が行われていたことが分かっています。

また弥生時代は長江流域の江南地方からも、
多くの渡来人が稲作の技術を日本に持ち込みました。
このことは江南地方で稲作を始めたのも日本人の可能性が高いということです。

弥生時代は秦の始皇帝が中国を統一し、
その後も戦乱が続いていることから、
多くの縄文人が難民となって、
東シナ海を直接または朝鮮半島経由で日本に逃がれたと考えられます。

これは鳥取県の青谷上寺地遺跡で、
百体以上の渡来人の人骨の中に傷ついた複数の人骨が見つかったことが証明しています。
彼らの遺伝子解析からY染色体のD系統、
すなわち縄文人の遺伝子が検出されているのです。

以上述べたように、
もし黄河文明も稲作も日本人が主役だったとすれば、
アジアの文明の発祥の主役は日本人だったと言うことになり、
これまでの歴史認識が大きく変わることになります。


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