弥生時代に日本は中国からの侵略に備えていたのか?
2021/07/09
情報メディア発信局へようこそ
鳥取県と島根県で弥生時代中期の2つの遺跡が見つかりました。
それは青谷上寺地遺跡と荒神谷遺跡です。
青谷上寺地遺跡からは100人以上の5300点の人骨が出土し、
そのうち110点に殺傷痕が確認されました。
遺伝子解析の結果、ほとんどが渡来人だったことが判明したのです。
これはどう解釈すればいいのでしょうか?
時代的に見ますとこの時期は中国大陸で秦の始皇帝が誕生した時期で、
その後の度重なる戦乱を考えますと、
巻き込まれた住民が日本に逃げてきたと考えるのが常識的な解釈と言えるはずです。
これほど多くの渡来人が押し寄せたにも関わらず、
日本文化も言語もほとんど変化を起こしていないのです。
これはどう解釈したらいいのでしょうか?
そうです、
渡来人自身も同じ日本の縄文人だったということです。
このことは従来から私が発信しているように、
アカホヤの大噴火と縄文海進によって九州の縄文人が大陸に渡り、
中国の戦乱から逃れるために日本に逃げ帰ったと考えると説明がつくのです。
*多くの損傷人骨の出土から倭国大乱の証拠と主張する歴史学者がおられますが、
日本人は実際の出来事を多くの伝説に残しています。
しかし倭国大乱の伝説がないだけでなく、
それを収めた邪馬台国も卑弥呼の伝説も残っていないのです。
また日本には重要人物を祀る風習があるにもかかわらず、
卑弥呼はどこにも祀られていないのです。
これほどおかしな話はありません。
また遺伝子がほとんど渡来人だというのは、
どのように説明されるのでしょうか。
*日本固有の縄文人より渡来人の方が長身長顔です。
これは縄文人が大陸に渡ってウラル系の人と混血したためと考えられます。
しかしベースは日本から渡っていった縄文人です。
では荒神谷遺跡からは何が出土したのでしょうか?
ここからは358本の銅剣と6個の銅鐸および16本の銅矛が出土しています。
なぜこれほど多くの戦闘用具が用意されたのでしょうか?
青谷上寺地遺跡の損傷人骨と合わせて考えたとき、
大陸から逃げ帰った縄文人たちは、
強大な秦の始皇帝からの侵略に備えたのではないかという解釈ができるはずです。
後に起こった白村江の戦いで、
敗北した中大兄皇子は唐と新羅の連合軍の侵略を恐れて、
首都をより安全な近江に移したり、
九州に水城を作るなど防衛体制を作りました。
このようなことが弥生時代にもあったと考えますと、
弥生人が大陸からの侵略を恐れて大量の武器を用意したことは十分納得できる話です。
ついでに書きますと、
私は神武東征とも関連しているのではないかと見ています。
神武東征はイハレビコノミコト(後の神武天皇)が日向から近畿に拠点を移して、
橿原の宮で初代天皇として即位された出来事ですが、
大陸からの脅威に備えるには、
九州より統治しやすい中央の近畿に拠点を移す必要があったのではないでしょうか。
神武東征は紀元前660年となっていますが、
当時の2倍歴を考えますと、
実際には弥生時代中期と考えることもできますので、
年代的にもおかしな解釈ではないはずです。
荒神谷遺跡の戦闘用具はかなりの強力な指導層の存在を示唆しています。
この存在がまさにイハレビコノミコト一行(後の大和政権)だと私は思っています。
*2倍歴とは半年を1年とするもので、
1年は2年と勘定されます。
例えば神武東征に出発したイハレビコノミコトは45歳になっていますが、
実際は22~23歳だったことになります。
また神武天皇の寿命は古事記では137歳になっていますが、
実際は68~69歳だったことになります。
いづれにせよ、
弥生時代から日本は大陸からの侵略の脅威を受けており、
それに備える体制を作る努力がなされたことは間違いなさそうです。
*弥生集落の多くに環濠が巡らされていますが、
これは集落通しの争いのためではなく、
中国からの侵略に備えた可能性があります。
環濠はその脅威の少ない東日本の弥生集落には見られないのです。
日本人通しの争いのためなら東日本にも作られていたはずです。
*
スポンサーリンク