宗像市が天皇家の第二の故郷だと言える根拠
2021/03/29
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私は宗像出身ですが、
長年なぜここに、
天照大神の3女神が祀られている宗像大社があるのかずっと疑問に思っていました。
その後仕事の関係で宮崎に赴任したとき、
白村江の戦いで大和朝廷が命がけで救出に行った百済が滅亡したとき、
百済王が宮崎(日向)に逃げて来られたので、
この地に百済の里が作られたことを知ったのです。
もともと宮崎は天孫降臨の地ですので、
宮崎ー宗像ー百済には大きな繋がりがあるのではないかと思っていたのです。
退職して少し古代日本の歴史を勉強してみようと思い立ったとき、
約7300年前のアカホヤの大噴火で、
南九州は人が住めない状態になったことを知ったのです。
そこで次のような仮説を立てました。
1.アカホヤの大噴火で住めなくなった日向の天皇家のご先祖が、
北部九州(宗像)に疎開した。
2。南九州の自然が回復したので、
天皇家は元々の故郷である日向に戻られた。
これが天孫降臨として後の日本神話になった。
しかしこれでは百済との繋がりは分かりません。
ところがその後、
北部九州の土器が激減した直後から、
朝鮮半島でよく似た櫛目紋土器が出土したことが分かったのです。
北部九州の縄文人が朝鮮半島に渡ったとすれば、
当然天皇家も朝鮮半島に渡られたに違いない。
そう思っていたとき、
佐賀で見つかった東名遺跡の存在を知ったのです。
東名遺跡は約7000年前の遺跡で、
すべてが泥に埋まった状態で見つかったのです。
縄文海進が原因だと直感しました。
しかしこれが半島に渡る理由とは思えません。
なぜなら朝鮮半島も縄文海進の影響を受けていたからです。
そのときたまたまですが、
葦の生育の北限が関東地方で、
東北や朝鮮半島は生息域から外れていることを知ったのです。
縄文海進で繁殖した葦が西日本の海岸線を覆ったとするとどうなるのでしょうか。
おそらく貝や海藻の生態に大きな影響を与えたのに違いない。
もしそうだとしますと、
海産物に依存していた縄文人は葦の弊害を受けない東北地方や朝鮮半島に移動したのかもしれない。
そう思って縄文時代の人口の変化を調べますと、
縄文海進のピークだった6000年前以降、
西日本の人口は極めて少なくなっており、
反対に東北地方の明らかな人口増加に加え、
朝鮮半島ではいきなり北部九州の土器によく似た櫛目紋土器が出土し始めているのです。
そのことによって北部九州の縄文人は朝鮮半島に渡り、
当然天皇のご先祖も朝鮮半島に渡られたはずだと確信したのです。
もしそこが高天原だったとしますと、
日本のことを葦原の中つ国と呼んだ理由が明確に説明できます。
海岸線が葦で覆われた日本列島を朝鮮半島から見ますと、
正に日本が葦の中の国に見えていたはずだからです。
*朝鮮半島南西部(後の百済の地)だけ十数基の前方後円墳が見つかっています。
これはここに天皇家の拠点があったことを物語っています。
九州では約4000年前頃から再び土器が出土し始めています。
これは大陸に渡っていた縄文人が縄文海進の収まりで戻ってきたと考えられるのです。
特にその後弥生時代になりますと、
西日本の人口は爆発的に増加しています。
教科書ではこれを稲作の広がりによる自然増と説明しています。
それにしては人口増が極端すぎる。
そう思っていたとき、
鳥取の青谷上寺地遺跡で約100体の弥生人骨が見つかり、
遺伝子解析の結果ほとんどが渡来人だったことを知ったのです。
その多くが損傷していることから、
大陸で起こった秦の始皇帝に続く多くの戦乱で、
大陸に渡っていた縄文人が逃げ帰ったとすれば、
人口の急激な増加が納得できたのです。
天皇家もこの流れの中で元々の故郷である日向に戻られたとすれば、
これが天孫降臨の神話として伝わったのではないでしょうか。
以上話が長くなりましたが、
このように天皇家が、
日向 → 宗像 → 朝鮮半島(高天原)→ 日向
という行動を起こされたと考えますと、
宗像市は天皇家の第二の故郷ということになるのです。
宗像市は宗像大社の存在のほかに、
天皇家の墓と言われる前方後円墳が高密度で存在しています。
また天照大神のご両親のイサナギ、イザナミを祀る八所宮があり、
神武東征の時ここの住職が神武天皇を赤い馬で出迎えられたことから、
赤間(赤馬)という地名が残っているなど、
天皇家との深い関係をうかがわせる土地柄だからです。
このような天皇家とのかかわりの深い土地は北部九州ではここ以外に見当たりませんので、
宗像が天皇家の疎開先すなわち第二の故郷だったのではないかということです。
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