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三内丸山遺跡の住民はどこから来てどこに行ったのか?

      2023/05/10

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三内丸山遺跡の住民は約6000年前から突然(?)出現し、
約4000年前に忽然と姿を消しているのです。

ここの住民はどこから来てどこに行ったのでしょうか。

私は次のような推測をしています。

出現した約6000年前とは縄文海進の最盛期に当たります。

このころ以降の日本の人口分布を見ますと、
東日本は西日本に比べて圧倒的に人口が多くなっています。

では約6000年前以前もずっとこの状態だったのでしょうか?

ここに面白いデーターがあります。

九州と東北地方の貝塚の量を比較しますとほとんど同じなのです。

もし縄文時代の草創期から東日本のほうがずっと人口が多かったのなら、
当然貝塚の量も多いはずです。

同じだということは約6000年前以前は西日本のほうが人口が多かったはずだということです。

西日本の縄文遺跡はなぜ見つからないのか。
それは縄文海進によってほとんどの集落が壊滅したからではないでしょうか。

これは佐賀で見つかった東名遺跡が証明しています。

この遺跡は約7000年前のものですが、すべてが泥に埋まった状態で発見されたのです。

おそらく東名遺跡は比較的高地に位置したため遺跡として残ったのですが、
それより低地にあった集落はすべて破壊されたと考えられるのです。

このことから縄文海進によって西から東へと住民の大移動が起こったと考えられます。

*この理由については私の他の記事をご覧ください。

以上のことから、
三内丸山遺跡の住民は西日本から移動してきた住民だったと考えられるのです。

大型住居の建造や栗の栽培技術などが突然取得できるはずはありません。

西日本にいた縄文人が身に付けていた技術が生かされた結果ではないでしょうか。

では三内丸山遺跡の住民が忽然と姿を消した理由は何でしょうか。

私はこの原因は稲作にあったと考えています。

東北地方は気候の関係で稲作には適しません。

稲はもともと南方性の植物ですので、
品種改良の結果東北地方でも栽培が可能になったもので、
当時は稲作は西日本に限定されていたのです。

稲作は以前は弥生時代からだと思われていましたが、
現在は縄文時代から行われていたようだという説が有力になっています。

おそらく三内丸山遺跡の人口が増えて、
栗の栽培などでは賄えなくなったために、
稲作が盛んになった時期に西日本への移住を決断したのではないでしょうか。

一説には寒冷化によって栗の栽培ができなくなり餓死したのではないかという極端な説もありましたが、
住民は餓死するまで一か所にとどまるはずはありません。

稲作の広がりにつれて西日本へ拡散していったと考えられるのです。

事実弥生時代は圧倒的に西日本のほうが人口が多くなっています。
これは東日本から西日本へと住民の大移動(逆流)があったことを物語っています。

縄文時代は食料の確保が最大の関心事だったはずです。
そのため人々は西→東→西と大規模な移動を行ったのではないかというのが、
この記事の結論です。

*縄文時代にそれほど多くの人が移動できるのかと疑問を持たれる方がおられるかも知れません。
しかし縄文時代は思いのほか物流が盛んだったことが分かっています。
物流があるということは当然人の流れもあったということです。

*私がこの記事を書いた理由は、
鹿児島で発見された上野原遺跡と何らかの関係があるのではないかと考えたからです。
上野原遺跡は三内丸山遺跡よりはるかに古い約8000年以上前の遺跡で、
高度な縄文文化があったことが分かっています。
この集落は約7300年前のアカホヤノ大噴火で壊滅しており、
ここで使われていた磨製石斧が全国から見つかっていることから、
ここの住民が日本国内に拡散したことが分かったのです。。
その後北部九州で約7000年前の曽畑式土器が見つかっていることから、
多くの住民が北部九州に疎開したと考えられるのです。
ところがこの土器も縄文海進の約6000年前に消滅しており、
住民がどこに移住したかを考えたとき、
約6000年前の土器が朝鮮半島と三内丸山遺跡で見つかっていることから、
年代的なつながりを感じたからです。
この関係は単なる偶然でしょうか?

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