本当の幸せとは何か?
2023/07/15
〈情報メディア発信局へようこそ〉
私は一時期、
人間の本当の幸せとは何かを徹底的に追求しようとした時期がありました。
その答えを見つけるためため、
図書館で仏教の本を読みあさるうちに、
般若心経が仏教の真髄をすべて言い尽くしているということを知り、
その意味の解読に取り組んだのです。
その結果、
ある程度自分なりの納得した解釈ができたと思ったのですが、
途中で気づいたのが、
頭で理解しただけでは本当に理解したことにはならないということでした。
やはりお坊さんのような修行が伴って初めて身に付くのだということでした。
そこで私は修行のまねごとを始めたのです。
すでに45歳を過ぎていましたが、
それまで付きまとっていたなんとなくの不安感が軽減され、
明らかな修行の効果が体験できたのです。
しかし、
その間一寸した気づきを体験しました。
私が図書館の片隅の長椅子に座って瞑想をしているとき、
視界の中に一人の若者が目に入ってきたのです。
彼は明らかに知的障害者と思われる行動をしていたのです。
図書館のオーディオコーナーのヘッドフォンをつけて、
いかにも楽しそうな表情で腰をくねらせていたのです。
知的障害がなければ周りの目を気にしてこのような行動は取らないでしょう。
全く周りの目を気にすることなく、
自分の世界に入り込んでいることが分かりました。
その時、
私の今やっている修行は何なのか。
私は自分のこだわりを捨てて、
幸福の心を得ることを願って瞑想しているのに、
私よりはるかに若い彼は自然に幸福の心を手に入れているのではないか。
おそらく彼は知的障害があるゆえに世間に対する余分なしがらみがなく、
周囲の目を全く気にせず自分の世界を手にできていることに気づかされたのです。
結局人間の幸福を阻害しているのは、
世間に対する過度な意識ではないか。
他人との比較。
他人からの評価。
これらを捨て去ると心が解放され、
もっと自由になれることをこの青年から教わった気がしたのです。
*仏教の教えの中に「いまここ」というものがあります。
これは過去や将来に捕らわれず、
瞬間瞬間を大事にして生きなさいという教えですが、
ほとんどの動物は自然にこれが出来ています。
これに対して人間は知能が発達しているがために、
過去を後悔し将来を憂うといった余分な感情が起こるために、
これが出来ないことが多いのです。
子供のころ夢中で遊んだ記憶があるはずです。
大人になるにつれ夢中になれないと気づかされる人も多いのではないでしょうか。
知能が発達することは不幸なことかもしれませんね。
「修業とは、何かを身に付けることではなく余分なことを捨て去ることだ。」
とよく言われますが、
分かる気がします。
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