記紀の記述は多くのことで辻褄が合っているが、魏志倭人伝の記述はほとんど辻褄が合っていない
2024/09/13
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現在の歴史教科書は、
記紀は神話の作り話で、
魏志倭人伝が史実として記載されています。
しかし、
日本の自然現象や土器の年代、
更には遺伝子や各地に残る伝承の存在などを総合的に考えたとき、
記紀は多くの事象で辻褄が合っているのに対して、
魏志倭人伝はほとんど辻褄が合っていないことが分かります。
ここではいくつかの事象を例にとって解説いたします。
まず、記紀による代表的な出来事は、
1.天孫降臨
2.国譲り
3.神武東征
ですので、
これらについて解説いたします。
1.天孫降臨
天孫降臨は天照大神の命令で、
孫のニニギノミコトが日向の高千穂の峰に降り立つことですが、
これによって天皇家の日本統治が始まることになっています。
まずここで問題になるのが、
そもそも高天原はどこにあったのかということです。
これには多くの説が存在しますが、
大きく分けて国内説と海外説があります。
もし国内説ですとどうなるでしょうか?
降臨という言葉に違和感を覚えませんか?
降臨とは神仏が地上に舞い降りるというように、
高貴な場所から降り立つという意味の他に、
かなり隔てた場所を移動するというニュアンスを持っています。
例えば高天原が関西や関東にあったとしますと、
降臨という言葉も不自然ですし、
辺境の日向に下るのも意味がない気がします。
しかも降臨は天照大神自らではなく、
孫を降臨させているのです。
もし高天原が国内にあったら、
いくら高齢でも大勢の付き添いがあれば、
天照大神自ら降臨できたはずです。
そう考えると、
高天原は海外にあったのではないかと思われます。
実はこの考え方は当時の自然現象と辻褄が合っているのです。
約7300年前に南九州で大規模な火山噴火が起こっています。
喜界カルデラいわゆるアカホヤの大噴火です。
これは鹿児島で見つかった上野原遺跡の地層調査で明らかになりました。
それまであった縄文集落が消滅しているのです。
そこで見つかったのは約8000年前後の縄文土器です。
当然この土器はこの大噴火によって消滅しました。
ところが大噴火の後約7000年前の土器が北部九州で見つかっています。
その土器は発見された土地の名をとって曾畑式土器と呼ばれています。
これはアカホヤの大噴火から逃れた住民が北上したことを物語っています。
ところがその土器も約6000年前に消滅しているのです。
ではその後土器はどこに出現したのでしょう?
じつは朝鮮半島は約12000年前から約7000年前まで土器が見つかっておらず、
人が住んでいなかったことが韓国国立中央博物館の古代年表で明らかになっているのです。
ところが約6000年前になって突然、
北部九州の曾畑式土器によく似た櫛目紋土器が出土しているのです。
これは北部九州の縄文人が朝鮮半島に移り住んだことを示唆しています。
以上はアカホヤの大噴火以降の土器の年代の変化、
すなわち人の動きを表す可能性を示す証拠ですが、
これを天皇家のご先祖の行動に当てはめてみましょう。
天皇家のご先祖は元々日向に住んでおられたと考えられます。
火山噴火に追われ、
約7000年前に北部九州に疎開され、
約6000年前になって朝鮮半島に渡られたのではないかと考えられ、
そこが高天原とよばれたと考えれば、
上記の土器の変遷に符合しています。
約4000年前になって九州の自然が回復したために、
半島に渡っていた住民が戻ってきたと考えられるのです。
これは九州に再び約4000年前の土器が出現しているからです。
もしこの時期に天皇家が元々の故郷である日向に戻られたとすれば、
これが天孫降臨だったのではないでしょうか。
以上のように天孫降臨は、
天皇家のご先祖がアカホヤの大噴火から逃れるために朝鮮半島に渡られ、
自然が回復したために日向に戻られた帰還行動だったとすれば、
天孫降臨は火山噴火や土器の変遷と完全に辻褄が合っているのです。
2.国譲り
国譲りとは天照大神の命令で出雲が日向に国を譲るという物語です。
これも長い間神話の作り話とされていたのです。
ところが出雲で記紀の記述に符合した神殿跡が見つかったのです。
これは国譲りの条件として建てられたものですが、
そもそもなぜ強大な出雲の国が弱小の日向の国に国を譲ったのでしょうか?
通常は弱小な国が力に負けて強大な国に国を譲るのが普通でしょう。
この理由は、
日向は天照大神の直系の孫であるニニギノミコトの国であるのに対して、
出雲は天照大神の弟のスサノウノミコトの子である大国主命が作った国。
すなわち日向が本家であるのに対して出雲は分家ということになります。
昔は本家の権限は絶対で分家は命令に背くことはできなかったのでしょう。
以上のように国譲りの条件とされた神殿跡が見つかっただけでなく、
本家と分家の関係などで辻褄が合っているのです。
3.神武東征
神武東征は日向に住んでおられたカムヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)が東征され、
畿内の橿原の宮で初代天皇になられた出来事です。
この出来事は日向から畿内までおびただしい伝説が残されており、
実際に起きなければ成立しない伝説まで含まれていることから、
史実である可能性が高いと言われています。
イワレビコ一行は日向から吉備(岡山)まで争いが起こっていないばかりか、
大歓迎を受けているのです。
もし一か所でも他国を侵入すれば歓迎を受けないまでも何らかのトラブルが起こっても不思議ではありません。
これは前項の国譲りの結果、
日向から吉備まで天皇家の領地になっていたからだと考えられ、
戦いは他領地である畿内のナガスネヒコとの間で初めて起こりましたので、
国譲りと神武東征は辻褄が合っていることになります。
以上天孫降臨、国譲り及び神武東征はすべて辻褄が合っているのです。
では一方の魏志倭人伝はどうでしょうか?
魏志倭人伝の記述の主なものは、
1.倭国で大乱が起こった
2.卑弥呼が大乱を収めた
3.卑弥呼が中国皇帝から金印を授けられた
ということになりますが、
これらは日本国内に一つも伝説が残っていないばかりか、
記紀や各地で作られた風土記にも記述が無いのです。
さらに考古学的にも大乱が起こった明確な痕跡が無いだけでなく、
邪馬台国の位置が特定できないばかりか最重要人物の卑弥呼もどこにも祀られていないのです。
日本には多くの伝承があり、かつ重要人物はかならずと言っていいくらい祀られているのに、
このような証拠が一つも存在しないことはもともと存在しなかったと考えるべきではないでしょうか。
このようなことから、
辻褄のあっている記紀の記述は史実と考えられますが、
日本国内に一切の痕跡が見つかっていない魏志倭人伝の記述は疑わしい。
という結論になりますが、
皆さんはどう思われたでしょうか?
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