情報メディア発信局

様々な情報コンテンツを発信していきます!

縄文時代に縄文人が朝鮮半島に渡った理由と証拠

      2016/09/16

日本と朝鮮半島は古来において頻繁な交流があったことが分かっています。
ところが言葉の障害をにおわせる記録が一切見つからないのです。
また沖ノ島は海の正倉院と言われるほどに8万点と言われる国宝が見つかっており、
中には金製品など高価なお宝が納められていたにもかかわらず奪い合いになった形跡がないのです。

これは両者の間で余程の信頼関係がなければ成立しないことです。
今まで渡来人と表現されていたような異国人通しの関係だったのでしょうか?
異国人とこれほどの信頼関係が築けるのでしょうか?
日本人通しでも血縁関係がなければお互いに疑いが生じ、
このような関係は長続きしないのではないでしょうか。

私は北部九州の縄文人が朝鮮半島に渡り、
両者の支配者通しに血縁関係があったからこそ成立したのではないかと考えています。

まず縄文人が朝鮮半島に渡らなければならなかった事情です。
約6000年前の縄文中期に縄文海進が起こっています。
海が内陸奥まで入り込み、
全国の平野部はこの縄文海進によって作られたと言われています。

北部九州の低地にある縄文集落は水没してしまいます。
これは佐賀の東名遺跡が泥に埋まった状態で出土したことが、
当時の状況を表しています。
九州の縄文土器の年代を調べますと、
約7000年前以前の土器と約4000年前以降の土器は見つかりますが、
縄文海進の起こった約6000年前から約5000年前の土器はほとんど見つかっていないのです。

一方韓国国立中央博物館から出されていた朝鮮半島の古代年表を見ますとこれ以前の遺跡が無く、
縄文海進の起こった約6000年前から突然北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めているのです。
縄の材料は葦や稲ですが朝鮮半島は葦の生育圏から外れているため縄文土器を作ることができず、
仕方なく櫛で模様を付けたものと解釈できます。

土器は生活するうえで必需品ですので、
人が住んでいなければ土器は作られませんし、
人が住んでいれは土器は作られるのは言うまでもありません。

北部九州で土器がなくなった後すぐに朝鮮半島からよく似た土器が作られていることは、
人が移り住んだ何よりの証拠と言えるのではないでしょうか。

頻繁な交流をしていたにもかかわらず言葉の障害が見られないなど、
多くの謎が同じ日本人通しだったことで理解できると思います。
またその後成立した国通しの指導者が海を隔てて血縁関係にあったからこそ、
沖ノ島に納められたお宝を奪い合わなかったのではないでしょうか。

私にはそれ以外の考えは思いつかないのですが、
間違っていますか?
私は以上の理由から古代の朝鮮人は日本人だったと思っています。

スポンサーリンク

 - 古代日本史, 歴史