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弥生集落に見られる環濠は集落通しの争いのためではなかった?

      2023/04/23

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歴史教科書では弥生集落の環濠は集落通しの争いのために作られたということになっています。

これは魏志倭人伝に倭国大乱の記述があり、
しかも九州や山陰の遺跡から明らかに争いによって傷ついた人骨が出土しているからです。

本当に多くの集落通しの争いがあったのでしょうか?

しかし、
損傷した人骨は今のところ九州や山陰などのごく一部でしか発見されていないのです。

この事実から、
倭国大乱が実際に起こったとはとても思えません。

しかも山陰の青谷上寺地遺跡で見つかった100体余りの損傷人骨を遺伝子解析しますと、
ほとんどが渡来人であることが分かったのです。

この事実は日本国内で起こった争いではなかったことを物語っています。

恐らくこれは当時大陸で生まれた秦の始皇帝から始まる多くの戦乱から逃れるために、
日本列島に東シナ海を直接または朝鮮半島経由で逃げてきた人たちだったのではないでしょうか。

縄文後期は西日本は東日本に比べて極めて人口が少なかったことが分かっており、
弥生時代に入って爆発的に人口が増加していることから、
渡来人は少数ではなかったのではないかと思われるのです。

もしそうだとしますと、
日本の言語や文化は大きく影響を受けているはずですが、
そのような証拠は見つかっていません。

これは渡来人自身も縄文人と共通の言語と文明を持っていたとしか考えられないのです。

稲作は中国の江南地方から伝わったことが分かっています。
しかも江南地方には日本の鳥居やしめ縄などの日本固有の遺物が見つかっているのです。

これは初めから鳥居やしめ縄が中国で生まれたのではなく、
日本から縄文人が大陸に渡ったと考えた方が納得できるのです。

なぜなら私が何度も記事で書いたように、
約7300年前に起こったアカホヤの大噴火と縄文海進の後、
九州の縄文人が大陸に渡ったと考えられるからです。

さらにもし鳥居やしめ縄などが中国で生まれたものなら、
今でも中国に残っていてもいいはずです。

さて本題の環濠ですが、
大陸から多くの日本人が逃げ帰ったとしますと、
当然縄文人は大陸からの侵略を恐れて防衛策を講じるはずです。

これが環濠ではなかったかということです。

環濠は大陸に近い西日本に多く作られており、
東日本にはほとんど見られないことから、
東日本の住民は大陸の脅威を感じなかったのかもしれませんね。

もし集落同士の争いだったのなら東西関係ないはずです。

以上のことから環濠は集落通しの争いのためではなく大陸からの侵略にそなえたものだとおもいますが、

皆さんはどう思われたでしょうか?

*当時の集落の規模からみると争いがあったとしても村通しのもめごと程度だったはずです。
環濠を作る必要があったとはとても思えません。

*渡来人によって遺伝子が変化したのは5世紀以降です。
すなわち弥生時代は争いのなかった縄文時代と変化していないのです。
人口増加と稲作の広がりだけで、
環濠を作る必要があるほど大規模な争いが起こったとはとても思えません。

*私は高地型集落も同様の理由で集落通しの争いというより、
大陸からの侵略に備えたものではないかと思っています。

 

 

 

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