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神話の時代の古代日本の本当の歴史を考える

      2023/03/01

情報メディア発信局へようこそ

古代の日本には文字がありませんでした。

そのため古代日本の歴史を知るには、
後世に作られた古事記や日本書紀(以下記紀と略す)などのように、
各地に残る伝承を元に作られた記録に頼らざるを得なかったのです。

伝承は言い伝えですので、
全くのでたらめとは言えませんが、
すべて真実を伝えているとはとても言い切ることはできません。

では、
古代日本の本当の歴史を知ることはできないのでしょうか?
文献より信憑性のある科学的手法はないのでしょうか?

あるとすれば、

1.地層調査による火山や津波などの発生時期の解明

2.各地に残る遺跡の年代と出土した土器の解明

3.出土した人骨の遺伝子解析

などの科学的な手法を組み合わせることによって想像するしかありません。

幸いなことにこれらの手法は以前に比べてずいぶんと進化しました。
ではこれらの手法から現在ではどのようなことが分かるでしょうか。

古代日本の歴史は天皇の歴史と言い換えることができます。
なぜなら日本は天皇を中心に形作られてきたからです。

それは記紀が天皇の歴史を記録したものであることからも分かります。

では上記3つの解析結果から見ると、
天皇の歴史はどのように想像できるでしょうか。

まず1.の地層調査ですが、
鹿児島にある上野原遺跡の地層調査によって、
約7300年前に起こったアカホヤの大噴火によって、
南九州は全く人が住めない状態になったことが分かりました。

これからどんなことが想像できるでしょうか。

南九州の住民は大規模な移動を余儀なくされたはずです。

それはこの地域で使われていた磨製石斧が全国で見つかっていることから、
住民が日本各地に拡散したはずだと想像できます。

記紀の記録から天皇家のご先祖はもともと日向に住んでおられたと仮定しますと、
大噴火によってどこかに疎開されたはずだと想像できます。

では次に2.の土器の年代からどのようなことが想像できるでしょうか。

上野原遺跡の土器の年代は約8000年前のものですが、
それ以降の土器は北部九州で約7000年前の曽畑式土器として見つかっています。

曽畑式土器は南方性の土器と言われていますので、
このことから南九州の住民は北部九州に疎開したと思われます。

ところがこの曽畑式土器もその後北部九州から消滅しているのです。

住民はどこに行ったのでしょうか?

実は約6000年前になって、
朝鮮半島から北部九州の土器によく似た櫛目土器が出土始めるのです。

朝鮮半島はそれ以前の土器は見つかっていませんので、
北部九州の住民が半島へ渡っていったと思われるのです。

以上から天皇家のご先祖も北部九州に約1000年ほど滞在したのち、
半島に渡ったと考えられます。

このことはその後の九州と朝鮮半島との関係によく表れています。

1、九州と朝鮮半島で盛んに交易が行われたにもかかわらず、
言葉の障害をうかがわせるような記録が一切ないこと。

2.百済の地には天皇家の墓といわれる前方後円墳が作られていること。

3.天皇家の興した大和朝廷と百済とは終始緊密な関係を保っていること。

4.白村江の戦のあと百済王と高句麗王は共に日本に逃げていること。

などですが、
そのようなことを考えて記紀の記述を考えますと、
次のようなことが想像できます。

1.アカホヤの大噴火によって日向で住めなくなった天皇家のご先祖は、
北部九州に疎開した後に朝鮮半島に渡られそこが高天原と呼ばれた。

2.九州の自然が回復したために天皇家は元々の故郷である日向に戻られ、
それが天孫降臨の神話として伝えられた。

天孫降臨以降の歴史は記紀で語られていますので、
ここでは天孫降臨までの天皇家の足取りを推測してみました。

この記事によって、

1.高天原はどこなのか。
2.なぜ出雲にスサノウノミコトは海を渡ってこられたという伝説が残っているのか。
3.なぜ天皇は朝鮮半島出身だという噂があるのか。
4.天孫降臨はなぜ日向の高千穂の峰で起こったのか。

などがご理解いただけるはずです。

遺伝子からも以上のことが推測できますが、
長くなりましたので私の他の記事でご確認ください。

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