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南九州の縄文人が古代朝鮮王国を作ったのか?

      2016/04/05

縄文文化は東日本で多く見つかっていることから東日本が中心と言われていましたが、
鹿児島の上野原遺跡と佐賀の東名(ひがしみょう)遺跡が見つかったことにより、
西日本にも大規模な縄文文化が形成されていたことがわかりました。

この2つの遺跡の年代を考えると、九州で2度にわたる縄文人の大移動があったのではないかと推測できます。
一つは火山噴火による移動。
もう一つは海面上昇による移動です。

上野原遺跡の地層を見てみますと、約7000年前の火山灰地層のあと縄文人の痕跡が無くなっています。
これは鹿児島沖のアカホヤの大噴火による火山灰で南九州が壊滅的被害を受け、
住民が北部九州に向かって避難したと考えられます。

北部九州にある佐賀の東名遺跡は約7000年前のものであることが分かっており、
年代的にみて南九州の住民との関連性を感じる研究者は多いのではないでしょうか。
特に地面を掘って食物を保存すると言う習慣が共通しているからです。

東名遺跡は泥に埋まった状態で発見されています。
縄文時代は温暖化の時代と言われており平均気温が数度高くなったことにより、
海水面の上昇が起こり水没したと考えられています。
生活が出来なくなった住民は2度目の移動を余儀なくされたことでしょう。
こんどはどこに避難したのでしょうか?

最も可能性の高いのは舟で朝鮮半島に渡ったということです。
当時朝鮮半島は無人だったことが韓国国立中央博物館の古代朝鮮年表で明らかになっています。
実際約7000年前の丸木舟の一部が韓国南部で見つかっているのです。
そしてその後約6000年前から櫛目文土器が出土しているのです。

2度の移動によりたどり着いた朝鮮半島で宮崎、鹿児島、熊本に住んでいた縄文人は互いに住分けたと考えられます。
なぜなら後でできた百済、高句麗、新羅の振る舞いが今の3県の県民性に極めて類似しているからです。

宮崎人は中央の権力に極めて従順な気質を持っています。
これは百済が大和朝廷にまるで属国であるかのように従ったことによく表れています。
百済が滅亡した時百済の住民は日向の国(宮崎)に逃げているのです。

一方鹿児島人は中央の権力に容易に屈しない気質を持っています。
薩摩が徳川政権に対し常に独立を保ったのは高句麗が大和朝廷に対し常に独立性を保ったのと類似しているのです。
高句麗王の諡号(戒名)に鹿児島の地名が付けられているのも偶然では無いでしょう。

また熊本人はおよそ中間的な気質を持っています。
やはり大和朝廷と敵対したり和睦したりとよく似た行動が見られます。
熊本の豪族が起こした磐井の乱は新羅の後ろ盾があったのです。

これらの関係から見て南九州と古代朝鮮3国は極めて緊密な関連があったことが分かります。
従ってこの3国は南九州人が火山灰によって故郷を追われ、
さらに北部九州で温暖化による村落の水没と言う2度の災禍にあって、
朝鮮半島に渡って作った王国の可能性が高いという結論になります。

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