天孫降臨とは高天原である朝鮮半島から元々の故郷である日向に戻られた天皇家のご先祖の帰還行動だった?
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縄文時代後期の西日本は東日本に比べて極端に人口が少なくなっています。
これは初めから西日本の人口が少なかったのではなく、
火山噴火(アカホヤの大噴火)と縄文海進によって、
西日本から東日本へ大規模な人口移動があったためだと考えられます。
これは貝塚の量が証明しています。
九州と東北地方を比較しますと、
6000年前以降は東北地方の方が圧倒的に人口が多いのに、
貝塚の量はほとんど同じなのです。
このことは6000年前以前は九州の方が人口が多かったことを意味しています。
縄文海進を境に人口の逆転が起こったと考えられますので、
縄文海進が西から東への人口の移動を引き起こしたということです。
このころ朝鮮半島では突然北部九州の土器に類似した櫛目紋土器が出土し始めていますので、
九州の縄文人の多くは朝鮮半島に渡ったのではないでしょうか。
このような流れの中で、
元々日向に住んでおられた天皇のご先祖も朝鮮半島に渡られたと考えられます。
縄文海進によって日本列島の海岸部は多くの葦に覆われたはずですので、
朝鮮半島から見ると日本はまるで葦の中にある国に見えたはずです。
高天原では日本のことを葦原の中つ国。
すなわち葦の中の国と表現していました。
これは高天原が朝鮮半島にあったことを示しています。
またスサノウノミコトの降臨先の出雲には、
スサノウノミコトは海を渡って来れれたという伝説も残っていますので、
高天原が朝鮮半島にあったということはまず間違いないと思われます。
さて本題のニニギノミコトが天下ったとされる天孫降臨のルートですが、
様々な伝説を考慮しますと次のようなコースが考えられます、
高天原(朝鮮半島)
↓(玄界灘を渡る)
宗像(九州北部)
↓(猿田峠を越える)
鞍手
↓(遠賀川をさかのぼる)
日向(九州南部)
天孫降臨は天照大神の命令で孫のニニギノミコトが降臨しますが、
なぜ天照大神自身が降臨されなかったのでしょうか?
恐らく高齢のため玄界灘を渡れなかったと考えられます。
もし高天原が日本国内にあったら、
大勢の付き添いがあれば可能なはずです。
もし高天原が関東や関西にあったのなら、
なぜ辺境の出雲や日向に降臨する必要があったのでしょうか?
全く説明がつきませんよね。
ニニギノミコト一行は宗像から鞍手に移動するとき、
猿田峠を通ったと考えられます。
猿田峠は天孫降臨の道案内をした猿田彦にちなんで付けられたようです。
猿田峠の脇には猿田彦が祀られています。
遠賀川流域には天孫降臨の伝説が多く残されているそうです。
そのことから一行は遠賀川をさかのぼったと考えられます。
記紀に韓国(カラクニ)に向かいという記述がありますが、
これは現在の韓国(カンコク)ではなく、
現在の宮崎県のえびの高原一帯を指すのではないでしょうか。
ここには韓国(カラクニ)岳という山が存在しているからです。
話が長くなりますのでここで切りますが、
要は以上が天孫降臨のルートではないかと思われるのです。
後に百済が滅亡したとき、
百済王は日向に逃れたため、
宮崎には百済の里が作られて現在観光名所になっています。
なぜ百済王は日向に逃れたのか。
それは日向が天皇家の元々の故郷だったからではないでしょうか。
以上から天孫降臨とは、
大規模火山噴火と縄文海進で住めなくなった天皇家のご先祖が朝鮮半島に渡られ、
自然が回復したために元々の故郷である日向に戻られた帰還行動ではないか?
というのがこの記事の趣旨です。、
これまでのところ私の他の記事で明確な反論はほとんどありません。
この記事についての反論のある方は是非コメントください。
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