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理系出身の私が退職後に歴史を勉強して驚いたこと

   

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私は学生のころ理系以外の学問に興味がなく、

文系の学問はほとんど勉強しませんでした。

その上大学受験は世界史を専攻していたこともあって、

日本史は中学レベルの知識しか持っていなかったのです。

私が日本の歴史に興味を持ったのは宮崎に赴任したことがきっかけでした。

周知のとおり宮崎は神話の里と言われ、

記紀によると天孫降臨の地と言われています。

更に宮崎神宮には初代天皇の神武天皇が祀られていて、

毎年秋になると神武大祭が開催されていたのです。

さらに宮崎には記紀に記述されている多くの地名や伝承が残されているだけでなく、

百済が滅亡した時に百済王が亡命してきたことで、

百済の里が造られていることを知ったのです。

そこで、次のような疑問が起こりました。

1.天孫降臨はなぜ宮崎で起こったのか?

2.神武天皇の伝承が多く残されているのは実在していたからではないか?

3.百済王はなぜ宮崎に亡命したのか?

私は退職後にふる里の福岡に戻りましたが、

居住地の宗像市でも次のような疑問が起こりました。

1.天照大神の3人の娘様(3女神)がなぜ宗像大社に祀られているのか?

2.宗像市にはなぜ前方後円墳が多いのか?

3.宗像市は天皇家と関係があるのではないか?

このように私が宮崎と宗像には天皇家で何らかのつながりがあるのではないか?

と考えていた時、

約7300年前のアカホヤの大噴火で南九州は人が住めない状態になったことを知ったのです。

私の疑問は次のように考えることで一気に氷解しました。

1.元々日向に住んでおられた天皇家のご先祖が、

アカホヤの大噴火で宗像の地に疎開した。

2.弥生時代になって南九州の自然が回復したために、

元々のふる里である宮崎に戻られ、これが天孫降臨の伝説となった。

この仮説は、土器の年代が証明していたのです。

鹿児島の上野原遺跡で約8000年前の土器が見つかっています。

この土器は大噴火の後無くなっているのです。

北部九州で多くの曽畑式土器が出土していますが、

この土器の年代が約7000年前のものであることから、

南九州の住民が大噴火を逃れて北部九州に移住した証拠と考えられるのです。

これによって私は天孫降臨は天皇家の帰還行動だったのだと確信したのです。

ところがこれでは宮崎に百済の里が造られた理由が分かりません。

その時、北部九州に約4000年前以降の土器が出土しているのに、

約7000年間から約4000年前の間の土器が見当たらないことに気づいたのです。

この間、住民はどこに行ったのか?

と考えたとき、

朝鮮半島で最初に発見された土器が約6000年前の櫛目紋土器だと知ったのです。

それ以前は土器が見つかっていないことから、

北部九州の縄文人が朝鮮半島に移り住んだ可能性が高いと考えたのです。

土器の年代から北部九州には約1000年ほど滞在したことになります。

もしこの仮説が正しければ、

朝鮮半島が高天原だったことになります。

こう考えると次のような多くの謎が解けるのです。

1.なぜ高天原では日本列島を葦原の中つ国と呼んだのか?

(答え)

約6000年前は縄文海進の最盛期です。

これによって日本の海岸線は多くの葦に覆われたはずです。

気候の関係で朝鮮半島は葦の生息地から外れています。

葦が繁殖しますと海藻や魚介類の生息地が奪われ、

住民は葦の生えない朝鮮半島に移り住んだのではないでしょうか。

朝鮮半島から見ると日本列島はまるで葦の中の国に見えたはずです。

2.天孫降臨ではなぜ天照大御神自ら降臨しなかったのか?

(答え)

孫を降臨させたくらいですから天照大御神はかなり高齢だったはずです。

当時の丸木舟では玄界灘を渡れなかったと考えられます。

3.降臨はなぜ宮崎と出雲で起こったのか?

(答え)

宮崎と出雲は朝鮮半島から見れば対岸だからです。

 

このように考えますと宮崎、宗像及び朝鮮半島の関係が明確になるのです。

結局古代はこれらは同族関係にあったということから、

頻繁に交易していたにも関わらず、

言葉の障害を伺わせる記録が無かったことが納得出来たのです。

また、海の航海の無事を祈って奉納された沖ノ島のお宝が、

奪い合いになっていないのは同族関係でなければ成立しないことも、

納得できるのではないでしょうか。

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