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あっと驚く古代朝鮮人の正体

      2016/03/14

こんな研究をしている私自身が本当に驚きました。
古代朝鮮人は南九州の人達だったのです。

私は以前からなぜ人種の違う古代の日本人と朝鮮人がこんなに頻繁に交流していたのか疑問に思っていました。
特に天皇家と百済王家との関係です。
桓武天皇の母親は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に書いてあるように、全くの別民族とは思えないような交流をしていたのです。

私は遺伝子に興味があり研究をしています。
古代の日本人と朝鮮人の遺伝子が同じでないと、いまの日本人と韓国人の遺伝子の関係にならないことに気づいたのです。
遺伝子が同じということは同じ日本人どおしだったということです。

そこで古代の朝鮮の歴史を調べてみました。
韓国の国立中央博物館の古代年表を見ると、当時朝鮮半島は無人であったことがわかります。
その後突然縄文土器(櫛目文土器)が出土しているのです。
この高度な縄文土器を作っていた人たちはいったいどこから来たのでしょう?

一方日本では、7300年前に鹿児島沖の硫黄島で大規模な火山噴火(アカホヤの大噴火)があり南九州一帯に最大1メートルの火山灰を降らせています。
1メートルも火山灰が降り積もると全く作物はできません。
そこで生活をしていた縄文人達は北に避難したはずです。

北部九州に生活の基盤を置いた人たちも一部いたかもしれませんが、大多数は無人の朝鮮半島に舟で渡ったと考えられます。
なぜなら韓国で当時の年代の丸木舟が見つかっているからです。

私は宮崎に約15年間住んでいましたので分かりますが、鹿児島、宮崎、熊本の県民の気質がかなり違うのです。
朝鮮半島に渡っても互いに交わったとは考えにくく、それぞれが別の場所に定住したと考えられます。
私は鹿児島にいた縄文人はのちの高句麗になる半島の北部に、宮崎にいた縄文人はのちの百済になる半島の南西部に、熊本にいた縄文人は後の新羅になる半島の南東部に生活の基盤を置いたと考えています。

鹿児島県民は独立心が強く中央の権力に容易に従わない所があります。
これは徳川幕府に対して薩摩が終始独立性を維持し従わなかったことに表れています。
高句麗が常に大和朝廷に敵対し、決して同調しなかったことからみて鹿児島県民と高句麗人の気質がそっくりなのです。

宮崎県民の気質は正反対で中央へのあこがれが強く権力に素直に従う気質をもっています。
これは百済が常に大和朝廷に従い、まるで属国であるような関係を維持していたことから百済人の気質は宮崎県民の気質とそっくりなのです。

熊本県民は臨機応変で多分に日和見的な気質を持っています。
これは新羅が大和朝廷に対し敵対したり同調したりしているところから新羅人は熊本県民の気質にそっくりなのです。

この関係はとても偶然とは思えません。
特に白村江の戦い後の状況にもっと表れています。
百済が白村江の戦いで滅亡したとき、多くの百済人が日向の国に亡命しているのです。
単に逃げるだけなら日本中に拡散してもよさそうですが、実際には王族を含め大多数の百済人が日向の国に集まっています。

また高句麗王も滅亡後、武蔵の国に亡命しているのです。
鹿児島に行かなかった理由は分かりませんが、
少なくとも日本人だった可能性が高いと思いませんか?
今の埼玉県には高句麗王を祭った高麗神社があり、信仰の対象になっています。
他民族の王様だったらこんなことをしますか?

以上様々な歴史上の出来事を見ると、古代朝鮮人は南九州に住んでいた縄文人が火山の噴火に追われて朝鮮半島に避難した人たちであったとしか思えません。
皆さんはどう思われますか?
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 - 古代日本史, 歴史