新羅は日本人(熊本人)が作った国でした
2016/07/08
韓国国立中央博物館の古代年表を見ますと、
朝鮮半島は約12000年前(BC10000年)から約7000年前(BC5000年)の約5000年もの間遺跡の記録がありません。
これはこの間、朝鮮半島に人が住んでいなかったということを意味します。
その後約6000年前(BC4000年)になってから九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が作られるようになり、
出土した人骨も現在の韓国人よりも日本人に近いことが分かっています。
このことから北部九州の縄文人が朝鮮半島に渡ったのではないかと推測できます。
そうだとすると彼らがわざわざ朝鮮半島に渡る必要性はあったのでしょうか?
約7300年前鹿児島沖の硫黄島で大規模な海底火山の爆発が起こり、
九州南部に最大1mの火山灰を降らせています。
生活ができなくなった九州南部の縄文人は、
生活の場を求めて北部九州に移動したと考えられます。
南部に住む熊本人も北部へ移動したはずです。
ところが約6000年前(BC4000年)になると今度は気温が上昇し、
現在より平均気温が1,2度高くなったため海水面も数m上昇して集落は水没したのです。
これは佐賀県で見つかった泥に埋まった東名(ひがしみょう)遺跡が当時の状況を証明しています。
生活できなくなった住民の一部は丸木舟で無人の朝鮮半島に渡ったと考えられます。
半島南部で当時の丸木舟が見つかっていますし、
そのころから北部九州の縄文土器に似たよく似た櫛目文土器が出土し始めるのです。
熊本の住民は半島の南東部で後の新羅となる地に定住したのではないでしょうか。
理由は大和朝廷に対し反乱を起こした豪族岩井氏の存在です。
装飾品等に似通ったものも多く、
岩井と新羅はずっと以前から長期にわたり独自のルートによって交流していたことが分かっており、
両者はもともと同族であったと考えたほうが納得できるのです。
福岡県の古賀市で見つかった船原古墳では新羅特有の馬具が見つかっており活発な交流を伺わせます。
戦いに重要な意味を持つ馬具が異国通しでやり取りされることは考えにくく、
熊本—古賀—新羅のルートは同族だと考えた方が自然ではないでしょうか。
歴史では岩井の乱は新羅がそそのかしたことによって起こったことになっていますが、
もともと新羅と岩井が同族の関係にあったとすれば無理なく納得できるのは私だけでしょうか。
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